築地本願寺新報5月号

『ご縁

「ご縁」。都合のいいご縁には感謝し、都合の悪いご縁には怨みを抱き、関心のないご縁はなかったことにさえする。それがどうやらこの私のようです。でも「ご縁」は感謝や怨みの対象ではないような。自分の都合や関心を超えて、どっぷり私を包んでいる「事実」が「ご縁」です。
新型コロナにより、職場ではリモートワークが進みました。学校ではオンライン授業が実現しました。エンターテイメントの分野では、配信される量も種類も格段に増えました。これらは苦肉の策からではありますが、実施してみればこの方が実用的な部分もあったと知らされています。ネット活用は日常的に社会に定着することでしょう。
その状況を乙武洋匡氏は少し皮肉まじりに嘆息します。「自分事になったらこんなにスピーディーに変わってしまうんだな」。
車椅子使用や視覚障害のある人は、毎日の満員電車の通勤は至難でした。仕事場に行けないという理由が、職を遠ざけていたのです。リモートワークの拡張を望む声はあげていたのに。
病気で長期入院していたり、不登校状態にある子どもは、教室で授業を受けることはできません。オンライン授業を望む声はあげていたのに。
障害がある人は、バリアフリー設備のない会場で音楽や芝居を楽しむことは至難でした。オンライン配信の充実を望む声はあげていたのに。
それが一気に変わったのです。「あれだけ熱望したのに、あれだけ声を上げていたのに、ちっとも耳を傾けてもらえなかった。ところが、いざ多数派の『自分たち』が同じような困難に直面したら、これだけダイナミックに世の中は変わっていくんだな」というのが乙武氏の実感だそうです。
「あれだけ声を上げていたのに」と言われても、耳にした記憶はあるでしょうか。記憶はあっても、その切実さをどれだけ想像できていたでしょうか。限りないご縁の中から都合のいいご縁だけを小賢く取捨選択していた私ではなかったでしょうか。
新型コロナ渦はいずれ収束し、多くの人たちは「日常」に戻っていくでしょう。そうなっても、満員電車に乗れない人たち、教室に通えない人たち、娯楽会場に入れない人たちの「日常」からの声に耳を閉ざしてしまうことのないように。また、ネットの重要度が増す中で、その環境の有無が新たな格差を生んでいる問題もスルーしてしまうことのないように。それらは自分と無関係では決してないのだから。情けは人のためならず。
誰しも、非常時はあってほしくありません。非常は必然的に日常を揺さぶります。それは不快です。しかし、非常はしばしば「問い」にもなります。気づきにもなります。その一方で、その問いや気づきから逃げようとする自分がいます。そんな私に、仏さまは「南无阿弥陀仏」というお念仏となって、問いや気づきを共に担ってくださいます。

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