罪福信

親鸞聖人は私たちの迷いの在り方を罪福信といわれました。それは、自分にとって現在都合が悪いもの、将来都合が悪くなりそうなものを排除し取りのぞこうとする信です。自分に都合の良いものは人であれ、物であれ、思いを叶える爲ならばすべて利用しようとする信です。自分に都合の悪いものを取りのぞく「自」、取りのぞかれる「他」を分ける在り方です。取りのぞくものと取りのぞかれるもの、力のある者と力のない者、他を排除し抑圧してゆく世界を作りだす信を罪だといわれるのです。この罪福信をよりどころとして生きる限り死ぬまで安らぎはありません。何故なら思い通りにならないものを排除するということは、いつでもこの私が排除される存在になるということです。また、すべての存在を思い通りに利用しようとすると、いつでも利用される存在に変わるということです。仏教では、私たちの知恵は分別智、分別する知恵といいます。それは自分を立てるために、自分と他人、自分と他なるもの分ける、区別する知恵によって行動しているのです。この分別智をよりどころとして生きる限り死ぬまで惑うのです。仏さまの知恵を無分別智といいます。人間の知恵、すなわち分別智に立つ限り決して安らぐことはありませんよと私に呼びかけて下さる知恵が無分別智であります。あさはかな分別智を照らし破って下さる用きこそ無分別智の仏さまというのです。この最初の二句は仏さまのおはたらきに南無し帰命しますという親鸞聖人の表白なのです。

南無阿弥陀仏

宗教とは

宗教の「宗」は「むね」と読みます。

辞書には、

読み方:むね

中心となるもの。また、重要なもの。「安全を—とする」

(旨)述べたことの中心趣旨趣意。「辞退する—を伝え

とあります。総じて「拠り所」という意味があるといえます。つまり「宗教」とは、自分は何を拠り所にし、何を大切にし、何を中心にして生きているか?を問題にし、課題にしているのが宗教ということになります。

では、私たちは何を大切にして生きているかというと、大きく3つに別けることが出来ます。

1、お金

2、健康

3、家族

もっと他にも沢山あると思いますが、だいたいこの3つを拠り所として大切に生きているのではないでしょうか。

経済、経済、経済と連呼された方がおりますが、お金を中心に生きている時は、「金宗」という宗教に入っているといえます。お金より「健康が1番」という時は「健康宗」という宗教に入っており、家族が1番大切という教えを信じている人は「家族宗」という宗教に入ってるということです。

私たちは「浄土真宗」ですから、金宗でも健康宗でも家族宗でもありません。真宗です。では、真宗とは何かと言ったら、真実を拠り所として生きて行きますという教えです。真実とは何かと言ったら、浄土真宗ですから、「浄土」が真実ということになります。私たちは浄土が真実と言われてもあまりぴんときません。そもそも浄土が何かよくわからないからです。その時々の自分の都合によって、金宗になったり健康宗になったり家族宗になってみたりします。もちろんそれらを否定しているわけでも駄目と言っているわけでもありません。どれもそれぞれ無くてはならない大切なものです。良いか悪いかではなく、理屈抜きで大切なものです。大切なものではありますが、その時々の自分の都度でコロコロ変わるものは真実ではないと言うことです。

真実とは、いつの時代のどこの誰でも、永遠普遍に変わらない「真理」を真実といいます。

では、浄土が真実といいますが、浄土とは何か?が問題になります。浄土とは一言で言うと、一言では言えませんが、あえて言わせていただきますと、「合掌する」と言うことです。手を合わせると言うことです。

私たちは何に手を合わせているでしょうか?

インドへ行きますと、「ナマステ」と手を合わせ挨拶をします。ナマステはサンスクリット語で「あなたを敬います」と言う意味です。

では、私たちは何を敬っているでしょうか?

その人それぞれの価値観や世間の常識や国のルールに縛られて、お金、健康、家族を大切に敬って生きております。真実を敬って生きているわけではありません。

合掌の姿は、私は無防備です、無抵抗ですという平和の象徴です。

合掌し合いながら喧嘩する人はいるでしょうか?いるかもしれませんが、少なくとも仏さまに合掌している仏事の時に喧嘩する人はいないと思います。

合掌している時は武器を持つ事も、相手を傷つける事も、自分を傷つける事も出来ません。

しかし、私たちは良いか悪いか、損したか徳したか、暑いか寒いか、うまいかまずいかで一喜一憂しながら、人と人とが比べ合い争いながら生きております。争いの無い時代はありません。争いが日常で、平和が非日常です。アフガニスタンの子供たちは平和と言う言葉が理解出来ないそうです。平和の状態がわからない。常に争いの中を生きているからです。

では、日本は平和でしょうか。武器を持って争っている時だけが、戦争ではありません。受験戦争と言う言葉の通り戦争しているのです。その争いに負けた人たちは負け組と言われ、いろいろな状況や理由があると思いますが、今、日本の何処かで30分に1人が自らいのちを経っている現実があります。

私たちは争うために生まれてきたわけではありません。

合掌を通して真実に出会う。

浄土という世界は、1人1人のいのちが光輝き、一切の差別がなく、みな平等で争いがない世界です。

私たちの娑婆世界は、1人1人のいのちが光輝かないで、差別だらけで平等ではなく争いしかない世界です。

宗教はこわいと世間では思われる方がおりますが、騙す方も騙される方も根本的には同じです。この壺一つで病気が治ると言われて喜ぶ人は健康宗で、この壺一つ売ったら献金して貰えると喜ぶ人は金宗なのです。真実を敬っているわけではありません。自分の都合を敬っているだけです。

自分さえ良ければよい、そのようなあり方をしている私ですが、一日に一回は仏さまに手を合わせ、一か月に一回はお寺に来て手を合わせ、一年に一回は京都の本山へ行って手を合わせることが真宗門徒の生活のたしなみです。一日中手を合わせて生活出来ませんから、最低一回はと言うことですが、何回でもいいのです。世界中の人が一斉に手を合わせる事が出来れば争いは起きませんが、それは不可能です。

しかし、あなたの救いが私の救いですという心も微かにはあります。ゼロではありません。

みんなそれぞれの教えを信じて、それぞれの人生を生きているけれども、どこで、みんな違ってみんないい世界という事ができるのか。

キリスト教だろうが、イスラム教だろうが、創価学会だろうが、共に救われていく道が真宗ではないでしょうか。みんな一緒になって救われて行きましょうという教えではありません。バラバラでいっしょです。

そのバラバラな私たちが、浄土を真実として歩んで欲しいと仏さまから願われているのです。

南無阿弥陀仏

旭川家具

大きくて、重たくて、幅取ってどうすんのこれ?って言うけど、僕は好きです。大切に使います。

リーダーとは

法蔵菩薩が願われた浄土は、国を超え民族を超えて共に手と手を取り合って温もり合える世界です。その温もり合える世界を日々忘れて生きていませんか?と私たちは浄土から呼びかけられているのです。
先日、読んだ記事に「出世する人の特徴は、まず仕事ができないということだ」とありました。『仕事ができる有能な人材はたくさんいるが、こういう人は以外にも出世しない。むしろ「大丈夫かな」と心配になった人たちのほうが次々と要職に就いていたりする。なぜかというと、「仕事ができない」というより、「できない」ことをさらけ出しているから。自分はできないので、人にやってもらうしかなく、それを自覚するゆえか愛想がよく、まわりも思わず手を貸したくなる。実際、こういう人がリーダーになると組織は活性化して、チーム全体で助け合いながら能力以上の成果を上げたりする。逆に、リーダーが「できる人」だと部下は従うしかなく、ミスを犯さないように萎縮するので、アイデアもリーダーの考えのミニチュアになりがち。リーダーには統率力や決断力が必要などとよくいわれるが、本当に大切なのは本人の能力より、人の能力を引き出す「引力」なのではないだろうか。本来「仕事」とは他人に仕える事。「できる人」ばかりがいると、この世に仕事は発生しないわけで、そう考えると「できない」ということのほうが経済にとっても重要な要素なのだ。「できる」というのはその先の世界が見えていないから、そう思えてしまうわけで、それは才能がないという証明なのだ』という記事があり考えさせられました。以前ある先生に「立派な坊さんにならなくてよい。あなたにわざわざなってもらわなくても、世の中に立派な人はたくさんいます。それより、自分の身の事実を素直に白状できる坊さんになってください」と言われたことを今でも忘れることができません。