今日は、開教者会報恩講の会議。
今年度は、10年ぶりに帰敬式(おかみそり)も行うことになりました🙏
御門徒さんとお話ししていて、いつも感じることがあります。
「法名」とお伝えしても、ほとんどの方が「戒名」と呼ばれること。
そして、
「亡くなった後につける名前」
「戒名は高い」
というイメージを持たれていること。
でも、これは御門徒さんが悪いのではなく、
私たち僧侶が、きちんと伝えてこなかったことにも大きな責任があるのだと思います。
最近では、ご葬儀の際に、
「法名はいりません。俗名で結構です」
と言われる喪主様も少なくありません。
けれど、
「浄土真宗では戒名ではなく法名といいます」
「本来、亡くなってからいただく名前ではないんです。生前に法名をいただくご縁がなかった場合、ご葬儀の際にお付けすることが多いため、『亡くなってからもらう名前』と思われがちなのですが……」
と丁寧にお話しすると、
「そういうことでしたら、お願いします」
と言ってくださることもあります。
そして、帰敬式について、
「法名は本来、生前にいただくものですよ」
と、これまでも再三説明してきました。
けれど、それだけではどこか人ごとのようで、
「では、いつ、どこでいただくの?」
というところまで、具体的なご縁をお示しできていなかったように思います。
「生前にいただくものです」と言いながら、
いただく場をつくってこなかった。
そこにも、もどかしさを感じていました。
だから今回、報恩講のご案内と一緒に、帰敬式のご案内も丁寧にさせていただこうと思っています🙏
『どうする家康』第26回に、印象に残っている場面があります。
武田勝頼が討たれ、その首を前にして、明智光秀が家康に、
「憎き勝頼なのだから、蹴るなり踏みつけるなり、気の済むまで」
という趣旨のことを言います。
それに対して家康は、
「恨んではおりませぬゆえ。死ねば皆、仏かと。」
と答えます。
「死ねば皆、仏になるのか」
そのことはいったん置いておくとして、
仏さまの教えは、
死んでから初めて必要になるものではありません。
法名もまた、死んだ人につけるためだけの名前ではありません。
今、生きている私が、
仏・法・僧の三宝をよりどころとして、
教えを聞きながら人生を歩んでいく。
その仏弟子としての名告りが「法名」であり、
その新たな歩みの出発点となるのが、帰敬式(おかみそり)です。
だからこそ、
「死んだら仏になる」その前に、
生きている今、仏法に遇ってほしい。
今回の帰敬式が、一人でも多くの方にとって、そんなご縁になればと思います。
ぜひ、一緒に仏弟子として歩んでまいりましょう🙏
もちろん、帰敬式に年齢制限はありません🤗
子どもも大人も、みんな仏弟子です🙏


