「世尊、もしわれあきらかによく衆生のもろもろの悪心を破壊せば、われつねに阿鼻地獄にありて、無量劫のうちにもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もつて苦とせず」
『涅槃経』
「真宗の救い」とは、
自分にとって都合の悪いものを排除して、居心地の良い場所を作っていくことではなく、
関係を切ることで自分の居場所を作ろうとしていた、その自分自身が知らされていく歩み。
そして、切ることのできない関係のただ中に、すでに自分の居場所があったことに気づかされていく。
それが「真宗の救い」であると、教えていただきました🙏
それが、仏法に出遇い、生活の真っただ中で仏道を歩むということです。
私は、欲望の塊であり、欲望の怪物である。
縁次第では、何をしでかすかわからない、とんでもないやつである。
そんな自分であることを知らされながら、なお、堂々と胸を張って生きていける場所が見つかる。
「そんなもの、救いでも何でもない。
ただの『ろくでなしブルース』を開き直って生きているだけじゃないか」
そう見えるかもしれません😹
でも、
「私はろくでなしだから、これでいい」
と開き直ることと、
「私はろくでなしであった」
と知らされることは、まったく違う。
知らされたからこそ、他人を「ろくでなし」と切り捨てることができなくなる。
自分の中にも同じものがあると知らされながら、その人との関係を生きていく。
阿闍世が破ろうとしたのも、「悪人」ではなく「悪心」でした。
人を排除するのではなく、
人を排除しようとする、この私の心が破られていく。
その歩みが、仏道なのだと思います。
そして、帰敬式(おかみそり)とは、立派な仏教徒になるための儀式ではなく、
そんな私が、何度でも帰っていく場所をたまわる、その歩みの始まりなのだと思います。
迷わなくなるのではない。
欲望がなくなるのでもない。
人を傷つけなくなるわけでもない。
それでも、そのたびに照らされ、知らされ、帰っていく場所がある。
「帰依仏・帰依法・帰依僧」
帰敬式とは、その「帰る場所」をいただくことなのかもしれません🙏
そして……
色褪せた帰敬式のポスターも、そろそろ新品に帰敬させなければならないと思います‼️😹
※本日、新しいポスターを送っていただけることになりました🙏😊




