昨日の法話会には、初めて聴聞に来てくださった御門徒さんがおられました。
初めて、お寺に足を運んで仏法を聞く。
その姿を見ながら、ふと思い出した言葉があります。
以前、50年もの間、お寺の聞法会に足繁く通っておられた、ある熱心な御門徒さんに尋ねたことがあります。
「50年も聴聞されて、何がわかりましたか?」
50年です。
きっと仏教の難しいことをたくさん知っておられるのだろう。
きっと何か、とても深い答えが返ってくるのだろう。
そんなことを思っていました。
ところが、その方は、
「難しいことは、ちっともわからん。だけどな、腹は立つもんだ、ということだけはわかりました」
と言われたのです。
最初に聞いたときは、驚きました。
50年も聞いて、それだけなのか。
50年もお寺に通って、それでも腹が立つのか。
それなら何のために、そんなに長い間、仏法を聞いてきたのだろう。
けれども、今はむしろ、この言葉に50年という歳月の重みを感じます。
50年聞いたから、腹が立たなくなったのではない。
50年聞いたから、
「私は、腹を立てる者だった」
ということが知らされてきた。
仏法を聞くということは、知識をたくさん蓄えて、何でもわかる人になることではないのでしょう。
まして、煩悩がなくなって、立派な人間になることでもない。
聞けば聞くほど、
「ああ、また私のことだった」
と知らされていく。
昨日、初めて聴聞に来てくださった方がおられました。
そして一方には、50年聞き続けて、
「腹は立つもんだということだけはわかった」
と言われた方がおられる。
初めての一日と、50年。
ずいぶん遠く離れているように見えます。
けれども、もしかすると聴聞というのは、
「わかった」
と言って卒業していくものではなく、
何度でも、
何年でも、
何十年でも、
「また私のことでした」
と聞かされ続けていくことなのかもしれません。
昨日、初めてお寺に来てくださった、その一歩。
その一歩が、これからどんなご縁になっていくのかはわかりません。
ただ、50年聞いた方にも「まだ聞く」ということがあり、
初めて聞いた方にも「ここから聞く」ということがある。
そう考えると、
仏法には「もうわかった」という卒業はないのでしょう。
私もまた、聞かせていただく一人です。
南無阿弥陀仏🙏







