私は、何かに行き詰まったり、悩んだりした時にはいつもこの文章を読み返すことにしている。
「教化本部発足の願い(1999年)」
教化活動の基本は、我々寺院に身を置く一人ひとりが、自ら聴聞し、教えを聞いていくことである。
その際に、これまでのように「教区は何もしてくれない。本山は何をやっているのか。」という意識、発想を転換して、「私はこういうことをやりたいが、それについて本山、教区は何か良い方法を持っているなら教えてほしい。手伝ってほしい。」あるいは、「私がやることを妨げないでくれ」というように、主体的に取り組むことが求められる。
本山から言われたから、教区から言われたから」と、文句は言いながらも結局それに頼り切ってきた中央集権的発想を転換して、教区の教化は教区人が責任を持って企画立案し、実行していくことのできる体制を持ちたいという願いのもと、新しい教化委員会(教化本部)は発足したのであります。
教化本部長 藤田彰美
※『北海真宗』1999年5月号より
別院時代、御輪番として大変お世話になった方である。今はもう会う事も声を聞く事も出来なくなってしまったが、昨日なんと夢に出て来てくれたとわかったのは、ムーちゃんに占領された布団の中で、ハッと目が覚めて、藤田さんの言われた事をスマホにメモしている自分がいた時だった。真横に寝るムーちゃん。縦に寝て欲しい…
今メモを見返しても、寝ぼけていたのか何となく意味がわからない…すみません。
「自分のやりたい事を妨げないでくれ」と言う事が出来るのかが問われている。
「中央集権的発想を転換して責任を持って主体的に取り組む」とは、具体的にどういうことか。
今月坊守が、民生委員に任命される。最初は僕に話しがあったのだが、いつの間にか坊守に白羽の矢が立っていたのである。適材適所。人は良く見ている。月に70軒近いお宅を訪問するお仕事。月参りがないこの地域で、まさにお寺としてやらなければならない事を、行政がお寺の代わりにやってくれている。
開教とは何か。強化とは何か。お寺だけの狭い世界に閉じこもるのではなく、もっと広い世界へ目を向けなければなりません。
先日、ある先生から嬉しい言葉をいただいた。
「新たに開いてくださった貴寺も含めた寺院が物心両面で宗派を支えています。
寺院建立されるご苦労に我々既存寺院が学ばせていただく時期と常々思ってます。どうかお大切に🙏」
生きる資格もない。住職と呼ばれる資格もない。夫やお父さんと呼ばれる資格もない私が、落第だらけの人生で支えられていたのは、煩悩具足の凡夫である私の方でした。


