住職とは

住職は住む仕事と書きます。つまりお寺に住み続けることが仕事ということです。住み続けると言っても、お寺は住職の所有物ではありません。御門徒さんの共有財産をお預かりしている留守番役です。留守番と言ってもただ何もせずいるだけではなく、親鸞聖人が処方して下さった弥陀の妙薬をいただく入院患者です。御門徒さんは通院患者です。住職は入院患者ですから御門徒さんよりも重症なのです。

そして聞法の道場として、内陣の荘厳をし境内を掃除する草むしりが仕事です。月忌参りや葬儀、法事が仕事ではありません。

しかし、草むしりだけでは食べていけないので、托鉢して回り施しを受ける事が必要なので、お勤めの研鑽が必要です。

その托鉢は仏縁を結んでいただく大切な仏事なので疎かには出来ません。一発勝負の真剣なお勤めです。

私も行きたいお寺と行きたくないお寺があるように、御門徒さんもあると思いますが、行きたいお寺、行けなくてもお寺に住職がいるだけで安心と言われるくらいではなけれはならないと思います。

南無阿弥陀仏

100点

100点💯凄いじゃん!
パパ100点なんてとったことないよ😄

人類に捧げる教団

『もっともっと悩まねばなりません。人類の様々な問題が私たちに圧しかかっているのです。安っぽい喜びと安心にひたるような信仰に逃避していることはできません。むしろそういう安っぽい信仰を打ち破っていくのが浄土真宗です』。安田理深師

『浄土真宗は人類に開かれた教えです。ですから、誰が聞いてもよろしいのです。真宗門徒だけの親鸞聖人ではないのです。すべての宗教の地下鉱脈なのです。仏教徒だけではなく、キリスト教徒でも、イスラム教徒でも真宗に遇わなければなりません。

同朋会運動は、門徒を増やしたり、強くしたりするための運動ではありません。キリスト教徒が親鸞聖人の教えを聞いたら、キリスト教をやめて真宗門徒になったり、仏教徒になるのではないのです。

キリスト教徒が浄土真宗の教えに遇うと、キリスト教がより深くいただけるのです。イスラム教徒が、真宗門徒に改宗するのでもありません。イスラム教がいよいよ深く頷かれるのです。そういう「生まれて生きる」という一切衆生に開かれた教えが浄土真宗なのです」と。

私たちは、一宗一派という狭い中をウロウロしていたのではないかと思います。御遠忌を契機に、閉じられた殻を破っていかなければなりません。 (藤田輪番)

中野誠二先生は講義の中で「お勤め、月参り以外の時に何をしていますか」と呼びかけ、「やらなくてはいけないことを先送りにしているということはないですか?」と、法務以外の生活をどう過ごしているのかということが大事ではないかと指摘してくださいました。そして「真宗大谷派教師として生きる意味は、自らが仏法に生きる道を見いだせるかどうかである」と力強く教えてくださいました。

南無阿弥陀仏

便は茶色い宝石箱

先日、妻が夜仕事から帰宅した後、慶應義塾大学 先端生命科学研究所 特任教授福田真嗣先生のWEBセミナーを受けていた。

仕事柄大変だな〜なんて思って自分は仕事のパソコンに向かって、何となく耳を傾けていたら、「仕事じゃなくてまこちゃんのためだよ〜」と言っていた。私の過敏性腸症候群を疑った彼女はわたくしのために、セミナーを受けてくれていたのだ。

何て優しい人なんだ、僕のお腹を心配してくれて有難うと心の中で思いながら、また仕事のパソコンに向かい何となく聴いていたら、福田先生の「便は茶色い宝石」という言葉が耳に飛び込んできた。

え?!

宝石?!

どうして、便の研究をしようと思ったのかなとは思っていましたが、まさか宝石までとは…

次の言葉が思い浮かんだ。

「辺見庸という作家が対談で次のような話をしております。「ぼくは今、非常に興味があるのは臭いなんです。臭いに無性の関心がある。というのも、地下鉄に乗っていたら、排泄物の臭いを消す薬という広告を見たんですね。これが高校生の間で流行っているという。

これが常備だっていうんです。ぼくは自分の排泄物も臭わさないで、人生いったい何が面白いのかと思う。さっきいった黒板のチョークを黒板消しで消すようにして人を殺せるというのもそれです。相手の臭いとか痛みとか手触り、そういうものを全部排除する社会になっている。相手の手触りとか言葉とか息づかいとか肌の感触とか、最近の日本人はそういうのが嫌なんです。直接的に交わるのが嫌なんです。臭いにまみれたり、汗にまみれたりすることを非常に嫌がる。美しさ醜さ、この基準を今の日本のようにこれほど単純にステレオタイプ化した歴史というのも人類史の中にないと思う。」という発言です。誠にその通りだと思います。

現代の人間には顔がないという。個性がない、特性がない。みんな考えることも、行動することも、相貌さえも均一化してきているし、均一化しようとしている。他と同じであることに安らぎを求めるということは、同じでないものを差別し排除する世界を作り出すのである。そこには他者との本当の意味での関係は生まれない。お互いの悲しみや痛みを共有する本当の関係が生まれてこないのです。誰にとっても、ありのままの自分を受け入れてくれる「ふところ」が欲しいのです。差異は差異で光輝く。差異があるから学べる世界を発見する。」

心して、うんちドリルを体のバロメーターとして向き合っていきたいと思います😌💩✨

南無阿弥陀仏