夕日

あまり、阿弥陀さんって夕日に照らされる事ってないと思うけど自然の光っていいな

引っ越したら照らされる事なくなっちゃうから寂しくいな

南無阿弥陀仏

修正会

「あけましておめでとう」お正月になれば、どこの家庭でも交わされるあいさつです。しかし、いったい何がおめでたいのでしょうか。ごちそうを食べたり、お年玉をもらったりできるからでしょうか。 一つ歳をとって大きくなったからでしょうか。そのめでたさの中身をちょっと考えてみるのが元旦のおつとめ(修正会)です。
去年はあまり良いことがなかったけど、今年はきっと良いことがあるだろうと、新しい年に望みをもつのは当然のことと言えましょう。しかし、何でも望みどおりになった年など、今までにあったでしょうか。 結局、去年のいやなことを忘れ、お正月に新しい夢を見る、そんなことを毎年くり返しているのではないでしょうか。
いのちが無限に続くならば、それでもいいかもしれません。しかし誰もが必ず死を迎えます。しかも、自分がいつ死ぬかは誰にもわかりません。いのちには限りがあるということを知り、夢から覚めることが大事です。 そうでないといくつになっても「今年こそは」といいながら、もう二度と戻ってこない「今」という大切な時を無駄に過ごしてしまうことになります。
親鸞さまは、人間が生きていくうえでなくてはならないことを「真宗」という言葉で示してくださいました。真宗に出遭えば、誰もがどんな状況の中でも、いきいきと生きることができると教えておられるのです。
自分の好きなことだけを求める生き方は、逆にいえば、いやなことが起こるのではないかといつもびくびくしている生き方です。ところが現実は、自分の望みに反していやな問題がたくさん起こってきます。 そのような中で、いやな問題であっても受け止めていけるのは、自分の好き嫌いよりももっと大切なことがあると気づいた人です。
私たちにとって何が本当に大切なことであるかそれを改めて考えるのが元旦のおつとめ(修正会)です。

(大谷大学 一楽真 学長)

恩師からの金言

「筋は通したのだから遠慮せず始めなさい。
ご門徒はお寺の所有物ではないし、教化活動に縄張りもない。
如来の事業を担うのですから、ちっぽけな人間のエゴはほっといて公明正大に胸張ってやっていきなさい。」

去年も波乱万丈だったが、今年も波乱万丈な予感がします。

これまで波乱万丈な人生ではなかったことはあっただろうか。

何処へ行き、何をしいても聞法と言う姿勢がなければ、「波乱万丈な人生だった」で終わるだろう。

共にと言うことがなければ、私1人では聞法はできない。御門徒さんと共に歩んでいく、地域の方々と歩んでいく、宗門の一員として歩んでいくと言うことももちろん大切であるが、聖典と新聞の間で聞法すると言うことを、今年は心がけたい。

頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って努力して、誰にも認められなくても、たった1人だけでいい。

南無阿弥陀仏

「正像未和讃」

「龍力不可思議」

 仏法に五つの不思議が説かれている。ここでいう不思議とは奇跡的なこと、偶然とか、人間が理解できないことをいうことではない。この身に賜っていることに驚きと喜び感動を発見したことであります。
先日NHKの教育テレビで「世紀末の風景」~棄てられしものたちの残像~というテーマで作家辺見庸(よう)さんは次のようなことを発言されていた。「自由にすきなものをすきなだけ消費しているという主観は大いなる幻想である。とんでもない楽観である。まだまだ使用価値も交換価値もあるものをゴミとして無感動に遺棄する驚くべき習慣がいつのころからかこの国に生まれてしまった。遺棄や投棄は必ずしも消費を意味しない。ならば私たちは一体何を消費しているのだろうか。物ではなく、実のところ私たちは私たち自身を消費させられているだけではないのか。とりわけ精神を、心を。それは正しくは消費とはいうまい、浪費である。
 高度資本主義社会における消費の幅の広さ、選択肢のおおさが一時(いっとき)大いに喧伝されたことがある。すきなものをすきなだけ、好きな時に買える、自由で楽しい個性尊重の社会なのだと。だが個人に開かれた選択肢、消費の幅が、そのまま人間の社会の豊かさ、人間の自由の度合いまで証明するものだろうか。まことにもって疑わしい。すきな物をすきな時買って、そして、あきがきたらあっさり打ち棄ててしまう。それが人としての豊かさであり、自由の証しでありえるわけがない」
という。
五つの不思議の中に龍力不可思議ということがあります。龍力とは自然の恵みの不可思議をいいます。すなわちこの身に既に賜っている自然の恵みに驚きと喜びを感ずることであります。消費が美徳という人間の傲慢さが、物を浪費し、人間の心まで浪費するのです。虚しく一生を終わらせない仏法を聴聞いたしましょう。南無阿弥陀仏

願入寺開基100年記念事業

「願入寺の新たな開教所の土地、建物取得」ご協力のお願い

願入寺は令和5年に開基100年を迎えました。先達の願いを受け継ぎ、品川に移転し5年。戸越開教所(品川区豊町)は、2年定期借家の賃貸(家賃11万5000円駐車場2万5300円)です。そのため、開教活動にも制限があり、その時々の仏事が行えない状況にあります。真宗門徒は報恩講に始まり報恩講に終わると言われます。一年で一番大切な仏事である報恩講のお勤めが出来ず心苦しい日々が続いております。そして、修正会、お盆、お彼岸、ご法事、毎月の法座や勉強会等を皆様と一緒にお勤めすることが私の願いです。その願いを実現するべく、100周年を一つの機縁として、新たな土地建物取得に向けて、戸越開教所(品川区豊町)の移転につきまして、ご門徒、願入寺にご縁のあった皆様に当事業を支えるための御志を頂戴いたしたく、ここに伏してお願い申し上げる次第でございます。ご門徒の皆様より、信仰を支える本堂の建築という当事業へのご理解をいただけるよう、事業の無事成満に向けて勤めて参ります。
尚、各家庭で様々なご事情があることと拝察し、任意による御寄付という形式ではございますが、どうか当事業の意義を最大お汲み取りいただき、御心を寄せていただけますと幸いです。
甚だ恐縮ではございますが、ご理解ご協力を賜りますよう衷心よりお願い申し上げます。合掌



本堂修繕事業 奉讃寄付金

総工費見積 4000万円

リフォームも1000万円ほどかかります。どうか皆様のお力添えをよろしくお願い致します。

【一口 10,000円】

ご寄付してくださった皆様のお名前を奉加帳に記載し、末永く保存し、ご尊家の安泰、ご先祖の永代経等、仏祖三宝に祈念させていただきます。

同  修繕内容
1、土地、建物(八王子物件)
東京都八王子市中野上町4丁目32−1
2、仏具
3、内外陣(本堂内装)の改装

ゆうちょ銀行振替口座
金融機関名 ゆうちょ銀行
記号番号 19940-8884061
【店名】998【番号】0888406
口座名義  国分 誠

皆様の暖かいお心ご支援、ご協力お寄せいただければ幸いです。些細でも構いません。お力をお貸しください。助けてください。よろしくお願い致します。    願入寺住職 国分 誠

ご報告

令和5年10月1日に物件を見つけ、不動産のご尽力のもと無事令和5年12月28日に八王子の物件を正式に登記取得する事が出来ました。これもひとえ皆様のお力添えのお陰です。引き継ぎご支援のほどよろしくお願い申し上げます。

特別御懇志御芳名

圓成寺様

100口

匿名様

70口

圓成寺様

御簾

あみだ堂様

経キン台

国分 正勝様

コーヒー豆焙煎機「カフェプロ 101」3台

田中 清幸様

看板(ナラの木)

岡本 勇様

火舎香炉

島野仏具店様

供花一対

南出 博様

御打敷(前机)

高嶋 豊次郎様

   あや子様

喚鐘

南出 シゲ子様

丸型三具足

田中 ヤスエ様

田中 義之様

平キン

太田 裕子様

一口

山田 隆人様

赤本(勤行本)10冊

新真宗聖典

納骨堂テーブル

ソーダストリーム

カキ氷機

(株)トライドジャパン様

お祝い金

藤田 紀明様

移転祝い

浄徳寺様

結婚祝い

教学研究所同期一同様

移転祝い

真宗会館

結婚祝い

人見 雅人様

移転祝い

上宮寺様

得度祝い、開店祝い

阿部様

開店祝い

サガワ様

開店祝い

ご寄付賜りました。有難う御座いました。(令和6年11月現在順不同)

末代無知の御文

近年日本人の平均寿命は80歳を超えたと言われています。そして、日本人の一日の平均睡眠の統計を見てみますと年代を超えて7時間22分だそうです。切りよく7時間の睡眠で80年の生涯で計算してみると、なんと約23年の睡眠時間になります。そうすると今年で45歳になる私は今まで約13年も寝ていたことになります。起きていてる時間は32年。人生の約半分は寝ていたことになります。ただの統計に過ぎませんから個人差があり一概には言えませんが、しかし今まで気づかなかったこの数字には驚きました。今まで頑張って生きてきたつもりが、半分は睡眠に費やしてきたと思うと何かもったいない感じがします。しかし、睡眠を否定するつもりはありません。寝だめと食いだめは出来ないというように生きていく上でとても大切な営みです。大切な時間と受け取るか、無駄な時間と受け取るか、私の受け取り方が問題なのだと思います。
お参りに行くと必ず最後に蓮如上人のお文を拝読させていただきます。「あなかしこあなかしこ」で終わるお手紙です。その一番読まれて親しいお文さんは「末代無智」のお文さんです。  
 この、お文の最後に「ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり」という言葉が出てきます。寝ている時も起きている時も念仏すべしと言われています。起きている時ならまだしも、なぜ寝ている時も念仏申せと言われているのでしょうか。蓮如上人は今から500年も昔、人々の睡眠時間の統計をとって、あなたは人生の半分は寝ているのだから起きている時はもちろん寝ている時もお念仏申しなさい促したのではありません。これは睡眠時間のことを言っているお文ではありません。この「ねてもさめても」に漢字にすると「寝ても醒めてもと」となります。つまり、私達は日常生活の中で目をパッチリ開けて生きているつもりですが、実は眠っていると言われているのです。真実に目を覚まさずに自分勝手な妄念妄想にどっぷりつかって、現実から目をそらし自分中心の酔いに眠りふけっていると言われているのです。その妄念妄想から目を醒まさせていただく教えがお念仏のみ教えです。

南無阿弥陀仏

チョコレート

若い人たちの好物にチョコレートがありますが、そのチョコレートの原料となるカカオの生産地が西アフリカだそうです。先日新聞に「子供の売買、西アフリカで横行。カカオ農場で奴隷扱い」という記事がでていました。西アフリカ沖で「人身売買船」が行方不明になった事件がありましたが、当然人身売買は違法行為です。西アフリカのベニンという国の貧しい農場に仲介業者がいき、「子供には教育を受けさせる。仕送りもさせる」と説明して、わずか数ポンド(一ポンドは約180円)で買うというのです。子供たちの行き先は、コートジボワールやガーナのカカオ農場に売られ、粗末な食事と長い労働時間、狭い部屋で酷使され、病気や衰弱して働けなくなれば捨てられるというのです。そして、西アフリカで奴隷扱いされている子供が156万人以上に上るといいます。(2020年、シカゴ大学)
 考えてみると私たちが何の疑問もなしに、美味しいと食べているチョコレートは、奴隷扱いされた子供たちの労働の犠牲の上でのチョコレートなのです。チョコレート一つ取り上げてもそうですから、私一人の生命を保つためには全世界の人の生命と関係しあって保たれているのです。このような沢山の人々の悲しい事実、犠牲の上に成り立っている生命なのです。
 経典の中に「おのおの貪欲・瞋恚・愚痴を懐きて自ら己を厚くせんと欲えり、多くあることを欲貧す」とあります。自分さえよければ人はどうなってもかまわないと言わないまでも、自分の生命の成り立ちをしらないのです。知らないということは知っている者より罪は深いのです。なぜならば知らなければ何の問題、疑問も生じません。知ることができれば罪を犯していることの自覚、懺悔が自然と生じるからです。私の盲冥、闇を照らしだして下さるおはたらきがあればこそ、私の所有物としての生命ではなかった、無量の生命をいただいて成り立っている生命であったと、敬うことができるのでしょう。南無阿弥陀仏