親鸞聖人は私たちの迷いの在り方を罪福信といわれました。それは、自分にとって現在都合が悪いもの、将来都合が悪くなりそうなものを排除し取りのぞこうとする信です。自分に都合の良いものは人であれ、物であれ、思いを叶える爲ならばすべて利用しようとする信です。自分に都合の悪いものを取りのぞく「自」、取りのぞかれる「他」を分ける在り方です。取りのぞくものと取りのぞかれるもの、力のある者と力のない者、他を排除し抑圧してゆく世界を作りだす信を罪だといわれるのです。この罪福信をよりどころとして生きる限り死ぬまで安らぎはありません。何故なら思い通りにならないものを排除するということは、いつでもこの私が排除される存在になるということです。また、すべての存在を思い通りに利用しようとすると、いつでも利用される存在に変わるということです。仏教では、私たちの知恵は分別智、分別する知恵といいます。それは自分を立てるために、自分と他人、自分と他なるもの分ける、区別する知恵によって行動しているのです。この分別智をよりどころとして生きる限り死ぬまで惑うのです。仏さまの知恵を無分別智といいます。人間の知恵、すなわち分別智に立つ限り決して安らぐことはありませんよと私に呼びかけて下さる知恵が無分別智であります。あさはかな分別智を照らし破って下さる用きこそ無分別智の仏さまというのです。この最初の二句は仏さまのおはたらきに南無し帰命しますという親鸞聖人の表白なのです。
南無阿弥陀仏