仏法に五つの不思議が説かれている。ここでいう不思議とは奇跡的なこと、偶然とか、人間が理解できないことをいうことではない。この身に賜っていることに驚きと喜び感動を発見したことであります。
先日NHKの教育テレビで「世紀末の風景」~棄てられしものたちの残像~というテーマで作家辺見庸(よう)さんは次のようなことを発言されていた。「自由にすきなものをすきなだけ消費しているという主観は大いなる幻想である。とんでもない楽観である。まだまだ使用価値も交換価値もあるものをゴミとして無感動に遺棄する驚くべき習慣がいつのころからかこの国に生まれてしまった。遺棄や投棄は必ずしも消費を意味しない。ならば私たちは一体何を消費しているのだろうか。物ではなく、実のところ私たちは私たち自身を消費させられているだけではないのか。とりわけ精神を、心を。それは正しくは消費とはいうまい、浪費である。
高度資本主義社会における消費の幅の広さ、選択肢のおおさが一時(いっとき)大いに喧伝されたことがある。すきなものをすきなだけ、好きな時に買える、自由で楽しい個性尊重の社会なのだと。だが個人に開かれた選択肢、消費の幅が、そのまま人間の社会の豊かさ、人間の自由の度合いまで証明するものだろうか。まことにもって疑わしい。すきな物をすきな時買って、そして、あきがきたらあっさり打ち棄ててしまう。それが人としての豊かさであり、自由の証しでありえるわけがない」
という。
五つの不思議の中に龍力不可思議ということがあります。龍力とは自然の恵みの不可思議をいいます。すなわちこの身に既に賜っている自然の恵みに驚きと喜びを感ずることであります。消費が美徳という人間の傲慢さが、物を浪費し、人間の心まで浪費するのです。虚しく一生を終わらせない仏法を聴聞いたしましょう。南無阿弥陀仏