本来の自分

真宗は聞くことに尽きると言われます。では何を聞くのでしょうか。それは自分を聞くのです。日常、私たちは自分のことは自分が一番よく知っていると言いますが、一番知らないのは自分ではないでしようか。その証拠にあなたはどうして生まれたの、どうして生きねばならないの、本当はどうなりたいのという問いを出されると、答えようがないのです。自分でありながら、自分を知らないで生きていることを迷いと言います。つまり本来の自己を見失って生きていることです。本来の自己の代わりに、思いで固めたものにすぎない自分というものを立てて、その思いで固めた自分を何とかしようと右往左往している。そういう生き方、在り方が、自分を知らない迷いなのだということを、自分の姿を通して知らされるのです。仏法が聞こえる身になるということは、特別な人間になるのではなくて、自分というものを見ていく目を頂くことです。思いで固めているだけに過ぎない自分の立場を見破って、本来の自己を回復していくことが、間法ということであり、自分の迷っている事実に気付かしめる一切のはたらきを仏法というのです。一切は仏法に出遇うためであり、仏法に出遇うとは、自分の迷いの深さの目覚めを通して、人生の無限の豊かさに目覚めていくことであります。

安田理深先生の『信仰についての問と答』のご本の中で「如来というのは、本来の自己です。自分が本来の自己を見失って我執を自己だとしていた。だから本来の自己にかえらせてもらう」と。また「我執が妄想を造って、造った妄想で我執が苦しんでいる。長い間見えなかった我執が見えた。そこに初めて宿業の現実がある」と教えて下さっております。ですからお念仏というのは、宿業の身にかえるということで、初めて忘れていた本願を思いおこす、自分の底に流れていた本願を思いおこすことなのでしょう。

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