電話

ふ〜😮‍💨

電話機、壊れました。

しかも膨らんでて、ちょっと怖いやつでした😹

ユーセンの方が新品を持ってきてくださって、ひとまず復旧🙏
本当に助かりました。

でも、今回改めて思ったんです。

電話って、
鳴らなければただの箱なんだなって。

どれだけ整えても、
かけてくださる人がいて、はじめて“ご縁”になる。

お寺も同じですね。

必要とされて、呼ばれて、
はじめてお寺になる。

…

なので、

用事がなくてもいいので、
ちょっと思い出したら、電話ください📞😄

ちゃんと出ます🙏

芝桜

650円で芝桜買いました🌸

東藻琴のような景色にはほど遠いですが、
小さな花壇から、少しずつ。

一株一株が、やがて広がっていくように、
ご縁もまた、広がっていきますように🙏😌

竹の子

ご近所さんから、朝採れの竹の子をいただきました🙏

去年は出なかった竹の子が、今年はドーン😄

地下でコツコツ準備してたんですね🙏

見えない努力、大事😏✨

ご馳走さまでした🙏😄

お勤め

あまり最近は言われなくなったけど、

『丁寧ですね』
『綺麗な声ですね』

そう声をかけていただきました🙏

その一言に、
また育てられている気がします。

そして一番響いているのは、
たぶんこの私です🙏

ツツジ

ツツジの美しさに目を向けたいところですが、
花粉症で目は痒く…😹
それでも今日も、目の前のご縁を大切に丁寧に🙏

剪定

ご近所さんが、ご近所さんのお庭の剪定をしている。
そんな何気ない光景に、ふと心が和みました。

特別なことではないけれど、
こうして自然に手を貸し合う姿に、
大切なものがあるように感じます。

剪定した枝を見ていたら、
「しきみに似てるから、いつでも使っていいよ」と。

人の手から人へと渡るものの中に、
あたたかい気持ちも一緒に添えられているようでした。

こういうご縁に支えられて、
日々が成り立っているのだなと感じます🙏😌

アインシュタイン

アルベルト・アインシュタインに、こんなお話が伝わっています。

教室で黒板にかけ算を書いていきました。

ほとんどは正しく書かれていましたが、
最後の一つだけ、わざと間違えたのです。

すると生徒たちは、その一つの間違いを見て笑いました。

そのとき彼はこう言います。

「私は9つ正しく書いた。
しかし誰もそこを見なかった。
ただ1つの間違いだけを見た。

これが社会だ。」

⸻

この言葉は、他人のことだけではなく、
実は「私自身の姿」をも照らしているのではないでしょうか。

私たちは、人の間違いにはすぐ気づきます。
しかし、その人が積み重ねてきた歩みや努力には、なかなか目が向きません。

それは同時に、
自分自身に対しても同じではないでしょうか。

できていないことばかりを見て、
できていることを認めることができない。

⸻

仏教では、私たちを「煩悩具足の凡夫」といただきます。

つまり、間違いをなくすことのできない存在だということです。

だからこそ、

「間違わないように生きる」のではなく、
「間違いの中で問われながら生きる」

そのような生き方が開かれているのではないでしょうか。

⸻

「間違いはプロセスの一つである。
何もしない人だけが、間違いをしない。」

この言葉を聞くとき、

私はこういただいています。

「動きなさい」ということではなく、
すでにご縁の中で「動かされている身である」ということ。

⸻

私自身、開教所を開くとき、
大きな不安がありました。

それでも一歩踏み出したのは、
自分の力というよりも、
ご縁によって動かされてきたのだと感じています。

その中で、法話会や子ども食堂、坊主バーという形で、
さまざまなご縁をいただいてきました。

うまくいかなかったこともたくさんありますし、
今もなお手探りの中にあります。

しかし、その一つ一つが、
「私とは何か」を教えられる出来事でもありました。

⸻

「今さら」ではなく「今から」でもなく、

「今、この私が問われている」

そのように受け取ることもできるのではないでしょうか。

これからの歩みの中で、
これまでの自分の姿が、あらためて見えてくるのかもしれません。

⸻

誰かの間違いを笑うのではなく、
その歩みを共に受け止めることができる私でありたい。

そして、自分自身もまた、
間違いの中で問われ続ける身として、生きていきたい。

そのように思わされるお話であります。

「本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれ。」

「本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれ。」
―『蓮如上人御一代記聞書』

昭和法要式が破れて、どれくらい経ったでしょうか。
ここ数ヶ月のことです。

本尊も今は掛けるものではなく、置く形になりました。
「掛けやぶれ」という言葉も、どこか遠く感じる時代です。

けれど、
本当に“破れている”のは、何なのでしょうか。

形なのか。
それとも、私の受け取り方なのか。

ふと外を見ると、
大きな木が、新緑を広げていました。

「この木なんの木、気になる木」なんて思いながら眺めていると、
その胸元には、小さないのちがひとつ。

どこからやって来たのだろう。

どちらも、同じように生きている。

小さないのちも、
大きな木も、
そして、この私も。

ちっぽけな人間だからこそ、
大きなものに心を動かされ、
小さなものに気づかされるのかもしれません。

「よみやぶる」とは、
ただ読んで破ることではなく、
自分の思い込みが破られていくこと。

今日もまた、
少しだけ、やぶられていきたいと思います。

育てられる

「“いい人になろう”としているうちは、見えないものがある。」

かつて信國淳先生は、こう言われました。

「わかってもわからんでもいいから、お念仏申しなさい。そして、お念仏によって育てられなさい。」

では、「育てられる」とはどういうことでしょうか。

私たちは、すぐに勘違いをします。

仏教を学べば、

もっと賢くなれるのではないか。
もっと立派になれるのでなないか。
もっと優しい人になれるのでなないか。
人よりマシな人間になれるのではないか。

でも、それは本当に
「育てられる」ということなのでしょうか。

日々の出来事を通して、

「あなたは、どう生きていますか」
「煩悩具足のままのあなたで、生きていますか」

と生活を通して、如来の問いかけを聞く者となることであり、お念仏は、
“いい人になるための道具”ではありません。

もちろん、清く正しく美しくなれる事には越したことはありませんが、どんなに変わろうとしているつもりでも、
本当は、自分から目をそらしているだけかもしれません。

うまくやろうとして、
ちゃんとしている“つもり”でも、

結局いつも、
自分の都合で物事を見て、
自分の都合で人を判断して、
自分の都合で生きている。

その私が、ここにいる。

ごまかしている私を、
言い訳している私を、
そのまま照らし出すはたらきです。

「あなたは、それでいいのか」

そう問われ続けているのに、
聞いていないふりをしているのも、この私です。

だから——

まずは、このどうしようもない私を、
そのまま引き受けて生きていく。

強くなるためでも、
誰かに勝つためでもない。

そこにしか、
念仏に育てられる道はないのだと思います。

南無阿弥陀仏🙏

御供えもの

いただいたお供物は、まず仏さまへお供えいたします🙏

先日、ご法事でのこと。
仏花を持参された施主さんが、「あれ?どっち向きだろう」と戸惑われていました。

とても大切なことだなと思いました。

一般的には「仏さまに捧げるもの」と思われていますが、
浄土真宗では少し受け取り方が違います。

もし本当に仏さまに向けて捧げるのであれば、
仏さまの方に向けて飾るはずです。

しかし実際は、お花もお供物も、私たちの方に向けて供えられています。

それは、仏さまが私たちに何かを伝えようとしているからです。

たとえばお花。
どんなに美しく咲いても、必ず枯れていきます。

その姿を通して、
「諸行無常(すべては移ろいゆく)」という道理を教えてくれています。

だからこそ、浄土真宗では造花ではなく生花を大切にします。

また、蝋燭は智慧の光、
お線香は平等のはたらき、
御仏飯は“いのちをいただいて生きている”ということを表しています。

そして大切なのは「お下げすること」。

お供えを下げていただくということは、
仏さまから“いのち”をいただくということでもあります。

上げっぱなしにするのではなく、
きちんといただくところまでが、お供えの意味です。

だからこそ、
上げること以上に「下げること」が大切なのです🙏😌✨