「本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれ。」
―『蓮如上人御一代記聞書』
昭和法要式が破れて、どれくらい経ったでしょうか。
ここ数ヶ月のことです。
本尊も今は掛けるものではなく、置く形になりました。
「掛けやぶれ」という言葉も、どこか遠く感じる時代です。
けれど、
本当に“破れている”のは、何なのでしょうか。
形なのか。
それとも、私の受け取り方なのか。
ふと外を見ると、
大きな木が、新緑を広げていました。
「この木なんの木、気になる木」なんて思いながら眺めていると、
その胸元には、小さないのちがひとつ。
どこからやって来たのだろう。
どちらも、同じように生きている。
小さないのちも、
大きな木も、
そして、この私も。
ちっぽけな人間だからこそ、
大きなものに心を動かされ、
小さなものに気づかされるのかもしれません。
「よみやぶる」とは、
ただ読んで破ることではなく、
自分の思い込みが破られていくこと。
今日もまた、
少しだけ、やぶられていきたいと思います。





