アルベルト・アインシュタインに、こんなお話が伝わっています。
教室で黒板にかけ算を書いていきました。
ほとんどは正しく書かれていましたが、
最後の一つだけ、わざと間違えたのです。
すると生徒たちは、その一つの間違いを見て笑いました。
そのとき彼はこう言います。
「私は9つ正しく書いた。
しかし誰もそこを見なかった。
ただ1つの間違いだけを見た。
これが社会だ。」
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この言葉は、他人のことだけではなく、
実は「私自身の姿」をも照らしているのではないでしょうか。
私たちは、人の間違いにはすぐ気づきます。
しかし、その人が積み重ねてきた歩みや努力には、なかなか目が向きません。
それは同時に、
自分自身に対しても同じではないでしょうか。
できていないことばかりを見て、
できていることを認めることができない。
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仏教では、私たちを「煩悩具足の凡夫」といただきます。
つまり、間違いをなくすことのできない存在だということです。
だからこそ、
「間違わないように生きる」のではなく、
「間違いの中で問われながら生きる」
そのような生き方が開かれているのではないでしょうか。
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「間違いはプロセスの一つである。
何もしない人だけが、間違いをしない。」
この言葉を聞くとき、
私はこういただいています。
「動きなさい」ということではなく、
すでにご縁の中で「動かされている身である」ということ。
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私自身、開教所を開くとき、
大きな不安がありました。
それでも一歩踏み出したのは、
自分の力というよりも、
ご縁によって動かされてきたのだと感じています。
その中で、法話会や子ども食堂、坊主バーという形で、
さまざまなご縁をいただいてきました。
うまくいかなかったこともたくさんありますし、
今もなお手探りの中にあります。
しかし、その一つ一つが、
「私とは何か」を教えられる出来事でもありました。
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「今さら」ではなく「今から」でもなく、
「今、この私が問われている」
そのように受け取ることもできるのではないでしょうか。
これからの歩みの中で、
これまでの自分の姿が、あらためて見えてくるのかもしれません。
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誰かの間違いを笑うのではなく、
その歩みを共に受け止めることができる私でありたい。
そして、自分自身もまた、
間違いの中で問われ続ける身として、生きていきたい。
そのように思わされるお話であります。







