心を失う

「あれもしなきゃ、これもしなきゃ」
忙しい、忙しいと心を失っております。
お寺のこと、法話のこと、生活のこと、そして自分の身体のこと。
やらなければならないことが次から次へと出てきます。
好きなお酒も禁酒。健康のために病院へ行かなければならない。そのことを考えるだけで不安になり、かえってストレスで身体に悪いんじゃないかと思ってしまう今日この頃です笑

「村上龍さんの訃報を機に、昔『カンブリア宮殿』でワタミの社長と交わしたやり取りが掘り起こされています。

「死ぬ気で血を吐きながら一週間やれば人は何でもできる。
『無理』と言うからダメなんだ」

そう熱弁する社長に、村上龍さんは絶句したあと、ポツリとこう言い返した。

「自分は無理」

さらに後日、村上さんは好きだったという「パン食い競争」のひとコマ漫画の話をしている。

みんなが一列に並んでパンに食らいつこうとしている中、一人だけ尻ポケットに「バター」を入れている奴がいる。

そいつは競争で1位になることなんて最初から考えていなくて、「取ったパンを美味しく食べること」だけを考えている。

村上さんは「自分はそういう奴が好きだし、自分もそうありたい」と語っていた。

根性論で勝ち上がることばかり求められる社会の中で、手に入れたものをどう味わうか。
自分の心と体を守るために、誰かに都合のいい根性論からは降りたほうが良い。」

と、最近のSNSに投稿されていました。

「お寺に身を置くとは、「教え」と「世間」の狭間に身を据え続けていくことであり、巡り会う人との交わりの中で、”あなたはこの世をどのような精神で生きようとするのか”ということを、聞き開いていくことである。

念仏の信心をたまわるとは、「教え」と「世間」の狭間に身を据えて、教法にたずねていくと同時に、ご門徒さんや地域の人々との交わりの中で、自分自身のあり方が問われ、自分の狭さが開かれていくことである。

具体的には、自分の教化の現場に、ご門徒や、地域社会の中に、私のことを親身になって叱ってくれる友だちや先輩がいるか、ということが問われているということなのでしょう。」

と、以前聞いた先生の言葉が思い起こされます。

自分の思いを肯定してくれる人ばかりではなく、自分の狭さを知らせてくれる人がいる。
それは時に耳が痛いけれど、ありがたいことでもある。
ただし、叱ってくれる人とは、無理を強いる人とは違うと思います。
「もっと頑張れ」と追い立てるのではなく、「そんなに頑張って、お前は何を見失っているんだ」と問いかけられるということが、自分自身のあり方が問われ、自分の狭さが開かれていくことではないかなあと思います。

「自分は無理」という言葉も、単なる諦めではなく、自分の限界を知っている愚者の言葉なんだと思います。