「本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれ。」

「本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれ。」
―『蓮如上人御一代記聞書』

昭和法要式が破れて、どれくらい経ったでしょうか。
ここ数ヶ月のことです。

本尊も今は掛けるものではなく、置く形になりました。
「掛けやぶれ」という言葉も、どこか遠く感じる時代です。

けれど、
本当に“破れている”のは、何なのでしょうか。

形なのか。
それとも、私の受け取り方なのか。

ふと外を見ると、
大きな木が、新緑を広げていました。

「この木なんの木、気になる木」なんて思いながら眺めていると、
その胸元には、小さないのちがひとつ。

どこからやって来たのだろう。

どちらも、同じように生きている。

小さないのちも、
大きな木も、
そして、この私も。

ちっぽけな人間だからこそ、
大きなものに心を動かされ、
小さなものに気づかされるのかもしれません。

「よみやぶる」とは、
ただ読んで破ることではなく、
自分の思い込みが破られていくこと。

今日もまた、
少しだけ、やぶられていきたいと思います。

育てられる

「“いい人になろう”としているうちは、見えないものがある。」

かつて信國淳先生は、こう言われました。

「わかってもわからんでもいいから、お念仏申しなさい。そして、お念仏によって育てられなさい。」

では、「育てられる」とはどういうことでしょうか。

私たちは、すぐに勘違いをします。

仏教を学べば、

もっと賢くなれるのではないか。
もっと立派になれるのでなないか。
もっと優しい人になれるのでなないか。
人よりマシな人間になれるのではないか。

でも、それは本当に
「育てられる」ということなのでしょうか。

日々の出来事を通して、

「あなたは、どう生きていますか」
「煩悩具足のままのあなたで、生きていますか」

と生活を通して、如来の問いかけを聞く者となることであり、お念仏は、
“いい人になるための道具”ではありません。

もちろん、清く正しく美しくなれる事には越したことはありませんが、どんなに変わろうとしているつもりでも、
本当は、自分から目をそらしているだけかもしれません。

うまくやろうとして、
ちゃんとしている“つもり”でも、

結局いつも、
自分の都合で物事を見て、
自分の都合で人を判断して、
自分の都合で生きている。

その私が、ここにいる。

ごまかしている私を、
言い訳している私を、
そのまま照らし出すはたらきです。

「あなたは、それでいいのか」

そう問われ続けているのに、
聞いていないふりをしているのも、この私です。

だから——

まずは、このどうしようもない私を、
そのまま引き受けて生きていく。

強くなるためでも、
誰かに勝つためでもない。

そこにしか、
念仏に育てられる道はないのだと思います。

南無阿弥陀仏🙏