芝桜

650円で芝桜買いました🌸

東藻琴のような景色にはほど遠いですが、
小さな花壇から、少しずつ。

一株一株が、やがて広がっていくように、
ご縁もまた、広がっていきますように🙏😌

竹の子

ご近所さんから、朝採れの竹の子をいただきました🙏

去年は出なかった竹の子が、今年はドーン😄

地下でコツコツ準備してたんですね🙏

見えない努力、大事😏✨

ご馳走さまでした🙏😄

お勤め

あまり最近は言われなくなったけど、

『丁寧ですね』
『綺麗な声ですね』

そう声をかけていただきました🙏

その一言に、
また育てられている気がします。

そして一番響いているのは、
たぶんこの私です🙏

ツツジ

ツツジの美しさに目を向けたいところですが、
花粉症で目は痒く…😹
それでも今日も、目の前のご縁を大切に丁寧に🙏

剪定

ご近所さんが、ご近所さんのお庭の剪定をしている。
そんな何気ない光景に、ふと心が和みました。

特別なことではないけれど、
こうして自然に手を貸し合う姿に、
大切なものがあるように感じます。

剪定した枝を見ていたら、
「しきみに似てるから、いつでも使っていいよ」と。

人の手から人へと渡るものの中に、
あたたかい気持ちも一緒に添えられているようでした。

こういうご縁に支えられて、
日々が成り立っているのだなと感じます🙏😌

アインシュタイン

アルベルト・アインシュタインに、こんなお話が伝わっています。

教室で黒板にかけ算を書いていきました。

ほとんどは正しく書かれていましたが、
最後の一つだけ、わざと間違えたのです。

すると生徒たちは、その一つの間違いを見て笑いました。

そのとき彼はこう言います。

「私は9つ正しく書いた。
しかし誰もそこを見なかった。
ただ1つの間違いだけを見た。

これが社会だ。」

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この言葉は、他人のことだけではなく、
実は「私自身の姿」をも照らしているのではないでしょうか。

私たちは、人の間違いにはすぐ気づきます。
しかし、その人が積み重ねてきた歩みや努力には、なかなか目が向きません。

それは同時に、
自分自身に対しても同じではないでしょうか。

できていないことばかりを見て、
できていることを認めることができない。

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仏教では、私たちを「煩悩具足の凡夫」といただきます。

つまり、間違いをなくすことのできない存在だということです。

だからこそ、

「間違わないように生きる」のではなく、
「間違いの中で問われながら生きる」

そのような生き方が開かれているのではないでしょうか。

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「間違いはプロセスの一つである。
何もしない人だけが、間違いをしない。」

この言葉を聞くとき、

私はこういただいています。

「動きなさい」ということではなく、
すでにご縁の中で「動かされている身である」ということ。

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私自身、開教所を開くとき、
大きな不安がありました。

それでも一歩踏み出したのは、
自分の力というよりも、
ご縁によって動かされてきたのだと感じています。

その中で、法話会や子ども食堂、坊主バーという形で、
さまざまなご縁をいただいてきました。

うまくいかなかったこともたくさんありますし、
今もなお手探りの中にあります。

しかし、その一つ一つが、
「私とは何か」を教えられる出来事でもありました。

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「今さら」ではなく「今から」でもなく、

「今、この私が問われている」

そのように受け取ることもできるのではないでしょうか。

これからの歩みの中で、
これまでの自分の姿が、あらためて見えてくるのかもしれません。

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誰かの間違いを笑うのではなく、
その歩みを共に受け止めることができる私でありたい。

そして、自分自身もまた、
間違いの中で問われ続ける身として、生きていきたい。

そのように思わされるお話であります。