スーパーボール

たまたま隣りに座った親子と、いつの間にか仲良しに😊

そしてなんと……

子どもたちにとっては宝物と言ってもいい、
大切なスーパーボールを3つもいただきました😹✨

「これあげる〜!」

いやいや、それ大事なやつじゃないの〜⁉️🤣

そのお礼と言ってはなんですが🙏

先日の町内会の縁日で余って、いただいてきた懐かしいおもちゃたちをプレゼント😌✨

めんこ、だるま落とし、水鉄砲……
こういうの、今の子どもたちにも結構人気なんですね😊

スーパーボールから始まった、ちょっとした物々交換😹

たまたま隣りに座っただけなのに、
話して、笑って、物を交換して、
いつの間にかご縁ができている。

こういう偶然の出遇いって、なんだか嬉しいですね🙏😌

そしてもちろん……

「毎月28日、子ども食堂やってるから遊びに来てね〜‼️」

宣伝も忘れませんでした😉✨

ご縁は、どこでつながるか分かりませんね😊🙏

昭和法要式

読み破ったご褒美なのか、お弁当をいただきました🙏😹

今日も無事、お勤めを終えることができました。

昭和法要式も、だいぶ年季が入ってきました🙏
「読み終えた」ではなく、
「読み破った」という言葉がピッタリ?です

そして帰りには、立派なお弁当までいただきました🙏

ご褒美ですかね〜😹🍱

有り難くいただきます🙏😊

有難う御座いました‼️

有難う御座いました

「もう、絶対一生口きかない‼️」

と、思ってたのに……

思いって、続きませんね…。

なんと、無事カードが見つかったのである。

警察に届いていました🙏

どなたが届けてくださったのか分かりませんが、本当に有難うございます🥹

世の中、まだまだ捨てたもんじゃねーですね。

そして昨日は、

「なんで失くすんだ‼️」
「なんで正直に言わないんだ‼️」

と腹を立て、

「もう一生口きかない‼️」

とまで思っていた私。

ところがカードが見つかった途端、

「よかったね〜😹」

である。

怒りも、腹立ちも、喜びも、
ずっと同じところには留まってくれません。

昨日あれほど腹を立てていた自分は、
いったいどこへ行ったのでしょう。

「一生口きかない」の“一生”は、
一晩ももちませんでした🙏😹

さて……

法事🙏
↓
葬儀🙏
↓
警察へカードを受け取りに🚓
↓
郵便局で紛失停止を解除🏣
↓
還骨法要

忙しい〜〜🙏💦😹

でも、見つかって本当によかった。

届けてくださった方に、改めて感謝です🙏🙇

お寺でご法事

今日はお寺でご法事🙏

睡蓮の蕾が顔を出しました😌

今年はまだ一個しか咲いてないので、待ち遠しいです😹

六道

アウシュビッツや戦争をTVで見て、

「なぜ人間は争うのだろう」
「なぜ人間はこんな残酷なことができるのだろう」

と考える。

ところがテレビを消せば、そこには自分の生活がある。

妻がキャッシュカードを失くした。
正直に「失くした」と言えばいいのに、嘘をついた。

すると腹が立つ。

「なんで正直に言わないんだ」
「失くしたことより、嘘をついたことが腹立つ」

そういう思いが次々と湧いてくる。

もちろん、夫婦喧嘩と戦争や虐殺を同列に扱うことはできない。規模も責任も苦しみもまったく違う。

でも、「争いというものは、自分とは無関係な遠い世界だけにあるのか」と仏法から問われれば、そうとも言い切れない。

自分が正しい。
相手が悪い。
謝ってほしい。
分かってほしい。
許せない。

その瞬間、私の世界には「私」と「相手」ができる。

六道は死後の世界ではなく、私たちの生きている姿としていただけば、本当に、

生活が六道を輪廻している。

腹が立って修羅になり、
欲しいものを求めて餓鬼になり、
都合よくいけば天上にいるように喜び、
少しすればまた腹を立てる。

朝、仏さまの前で手を合わせて頭を下げたその日のうちに、妻には頭が下がらない。

だから、

真宗の仏道は、生活を離れたところにあるのではなく、生活のただ中にある。

という言葉が、急に現実味を帯びてくる。

お経をいただいてるときだけが仏道を歩んでいるのではない。

キャッシュカードを失くしたと聞いた瞬間も仏道。
嘘をつかれて腹を立てているときも仏道。
「俺は悪くない」と思っている、その私が照らされるのも仏道。

そして、

「六道から抜け出して立派な人間になってから、仏道を歩む」のではない。

わかっちゃいるけど、やめられない。

分かっていても腹が立つ。
教えを聞いていても妻を責める。
戦争を見て「人間はなぜ争うんだ」と嘆いていた本人が、その日のうちに家庭で争っている。

そこで、

「ああ、人間とは愚かだ」

ではなく、

「ああ、“人間”とは私のことだった」

となる。

ここに聞法がある。

「苦しみのない世界を教えてください」と願った韋提希夫人。

私も「戦争のない世界になれば」と願う。

でも、その私の日常には争いがある。

だから浄土を願うということは、単に「どこかに争いのない理想世界がありますように」と願うだけではなく、その浄土の光によって、

争いをなくしたいと願いながら、争いをつくっている私自身が照らされる。

その生活のただ中で南無阿弥陀仏を聞いていく。

そう考えると、

「真宗は生活のなかで仏道を歩む」

という言葉は、きれいな生活をするという意味ではなく、

六道を輪廻している、このどうしようもない生活そのものが聞法の道場になる。

救いとは、六道を輪廻しなくなることでも、腹を立てない立派な人間になることでもなく、六道を輪廻するほかない私が、その私を見捨てない仏の光に遇うこと。

そして「救われたから、もう争わない」ではない。

今日も腹を立てる。
今日も「俺は悪くない」と思う😹
それでも、そのたびに、

「ああ、凡夫とは私のことだった」

と帰ってこられる場所がある。

南無阿弥陀仏