近所の本屋さんが無くなって、早一年。
すっかり建物も変わりました。
田口ランディさんの、「読書の愉しみ」と言う文章が思い起こされます。
「読書は映画やお芝居とは、まったく違うものです。どちらかと言えば落語に近いかもしれません。以前に落語好きの人に落語の楽しみ方を伺ったことがあります。落語は噺家の語りを聞きながら頭の中でありありとイメージを思い浮かべるところに楽しみがあるのだそうです。
落語が好きではない、という人はそのイメージを想起することが苦手な人ではないか、と彼は言いました。落語好きは落語を聞きながら映画を観るように悩内で映像を楽しんでいるのだそうです。
本もいっしょです。本好きの人の頭には映像が浮かんでいるのです。それは誰も見ることのできない自分だけの映像です。
この世には存在しない不思議な映像です。読書に没頭すればするほどありありと見えます。ですから、読書とは自分が意識して本の内容に入り込み、自分から本の世界に分け入っていかなければなりません。脳がフル活動し、視覚野や聴覚野までも刺激され、イマジネーションが活発になり、脳全体が働いているような状態になる、これが読書なのです。脳は自分が聞きたい音を聞き、見たいものを見るという能力があるのです。
映画やテレビは違います。音も映像も圧倒的な強さで向こうから入ってきます。こちら側の想像力は要求されません。与えられたものを楽しむのが映画です。これに慣れてしまうと自分を興奮させるものだけが素晴らしいと思い込み、本のように自分から自己関与していかなければならないものをつまらないと感じてしまいます。
本から何を得るかは、読み手次第なのです。自分のイマジネーションを鍛錬し、文字を映像に音にと脳内で創造するクリエイティビティとして遊ぶものが読書です。本は与えてくれません。
本は旅をする森であり、その森で何と出会うかは、読者次第なのです。
ある人にとっては、記号だらけの物理学や数学の書物が、宇宙の神秘を解き明かす美しい音楽として感じられます。また、ある人にとっては詩集が、生と死のあわいを描いた繊細なタペストリーとして感じられます。
どのような本もその本から何を得るか、何を感じるかは読者のイマジネーションに委ねられています。そのイマジネーションを刺激し続ける作品が、時代を超えて語り継がれてきました。
古典と呼ばれるものを繙けば、そこには物語の世界、ファンタージェンが広がっています。でも、物語はそこに自らが自分の脳を使って入っていこうと、集中しないかぎり、入り口の扉を開いてくれないのです。自分のイマジネーションを使わない限り、入っていけない森なのです。そのことを現代の人たちは忘れがちです。ただ座っているだけの観客を楽しませてくれるエンターテイメントとは違うのです。
私は、映画を観るように映像の世界を楽しみながら本を読みます。本と私の内的世界は完全に一致してしまいます。それが読害の愉しみです。」
あの場所には、
たくさんの“物語の入り口”がありました。
読書は、与えられるものではなく、
自分で入り込んでいく世界。
同じ一冊でも、
見える景色は人それぞれ。
だからこそ、
本は「自分だけの世界」を持たせてくれるのかもしれません。
便利になった今だからこそ、
少し立ち止まって、
自分の中に広がる世界に耳を傾けてみたいものです。




