対話

今日、坊守が行った御門徒さんのお参りに懐かしい本が🙏

住職が行けば良かったのに〜と言われて、そんな〜😹と。

「まだまだ言い尽せなかったことが多くありますが、その点は僧侶にどんどんご質問していただきたいと思います」

冊子だけで完結させず、そこからお寺とのご縁、僧侶との対話が始まってほしいという願いが書かれています。

今日、何十年か経ってその冊子を挟んで坊守と御門徒さんが話しているわけですから、ある意味では、この「あとがき」の願いが今も生きていると思います‼️

ひたむき

ご縁がいつまでも続く保証なんてないし、「また今度」が必ずあるわけでもない。
だからこそ、いただいた一つひとつのご縁を当たり前にせず、目の前を精いっぱいをひたむきに🙏

ただ、「頑張れば必ず報われる」ではなく、「報われるかどうか分からなくても、今できることを尽くす」

それが「ひたむき」ということなのかもしれません🙏

お朝事

お朝事 

仏さまの前に座って、手を合わせ、頭を下げる。
ある先生が、「お朝事は、謝る練習でもある」とおっしゃっていました。

私たちは、なかなか頭が下がりません。
「自分は悪くない」
「あの人が悪い」
「自分は間違っていない」
そうやって、頭を上げて生きています。

そんな私が毎日、仏さまの前では頭を下げる。
頭の下がらない私の頭が、下がる練習をさせていただいている。

朝、陽菜は起きてきませんでした。

坊守は早くからお勤めへ。

今日は一人🙏

一人でお勤めをしながら、昨日からずっと心に残っている言葉があります。

「私たちはいつの間にか
多数を正義として
ひとりを見失っていました」

学校へ行けないという事実だけを見ると、いつの間にか「学校へ行けない子」の側に問題があるように考えてしまう。

でも、いじめた側は何事もなかったように学校へ通い、いじめられた側が学校へ行けなくなり、その子や家族だけが「この先どうなるのだろう」と不安を抱える。

それは、どこかおかしな話。

しかし、
学校へ行くことは大切かもしれません。
けれど、学校へ行くこと以上に、その子がその子として生きていくことの方が大切。

みんなと同じ道を歩けなくてもいい。
学校だけが学ぶ場所でも、生きる場所ではない。

遠回りに見える道も、立ち止まる時間も、その子にしか歩めない大切な人生の一部。

「多数」の中へ戻すことばかりを考えるのではなく、
目の前の「ひとり」を見失わない。

「いじめられる方にも問題があるんじゃないか」
「どっちもどっちなんじゃないか」

私自身、そんなふうに思ってしまうことがあります。

けれども、それこそが、

「私たちはいつの間にか
多数を正義として
ひとりを見失っていました」

という言葉に照らされている私の姿なのだと思います。

仏さまの教えを聞いているからといって、
私が教えの通りに生きられる人間になったわけではありません。

人を比べ、裁き、
多い方に安心し、
自分に都合のいい正義をつくって、
目の前の「ひとり」を見失ってしまう。

もし私が、教えられた通りに生きることのできる人間なら、
そもそも教えなど必要ないのでしょう。

教えに背いて生きている私だからこそ、
教えが光となって、私の姿を照らし出すはたらきとなる。

光があるから立派になるのではなく、
光に照らされて初めて、
「ああ、私はまた、ひとりを見失っていた」と知らされる。

だからこそ、教えは光り輝くのだと思います。

確かに、私にも頭を下げなければならないことがあります。

離婚をして、母子家庭の中で寂しい思いをさせてきました。

そして私は再婚し、八王子で新しい生活を送っている。

娘のことを思えば、「本当に申し訳なかった」と、頭が下がります。

過ぎてしまったことを、なかったことにはできません。

けれども、頭を下げたあと、ずっと下を向いていなければならないわけではありません。

頭を下げたからこそ、もう一度、前を向いて歩いていく。

学校へ行けないなら、無理に「多数」の側へ押し戻すのではなく、陽菜が陽菜として歩いていける道を、一緒に探していこう。

それが今、父親としてできることなのだと思います。

私も間違える。

また「ひとり」を見失ってしまうかもしれない。

だからこそ、また仏さまの前に座り、手を合わせ、頭を下げる。

そしてまた、照らされながら生きていくのです。

……まあ、今は夏休みなので、そもそも学校はありませんが😄

それでも、他の子たちは部活に勉強に遊びにと、それぞれの夏休みを過ごしているのでしょう。

陽菜も、陽菜の夏を生きています。

明日、陽菜は帯広へ帰ります。

寂しいです。

もっとこうしてあげればよかった。
あの時こうしていればよかった。

思えば、いろいろなことが出てきます。

それでも、過ぎた日には戻れません。

だから、今日を生きる。

離れていても、父親であることに変わりはありません。

陽菜は陽菜の道を。

私は私の道を。

そしてまた、ご縁があれば一緒に歩けばいい。

寂しいけれど、私たちは生きていかなければなりません。

頭を下げたら、また頭を上げて。

今日もまた、頭を下げて上げて忙しい🙏

そして、頭を下げて気づく。

寝癖がひどい😹

南無阿弥陀仏🙏

タイブレーク

八王子まつり3日目
八王子実践、甲子園で延長タイブレーク⚾️
そして八王子はゲリラ豪雨☔️⚡️

八王子実践は鳴門渦潮と1―1のまま10回タイブレーク……。祭りどころか、テレビからも目が離せない😹

そして、雨雲レーダーが真っ赤っか😱☔️
お祭りの人たちも大変だ〜💦

よく頑張った‼️

お寺の責任

「浄土真宗は、すぐ仏様になるから四十九日しなくていいんですよ」と、葬儀屋さんに言われたと、言われたことが忘れられません🙏

平和の鐘

昨日は朝早くから、八王子まつりのミストの管理、お疲れさまです🙏😌

私も連日、朝からの法務で少々バテ気味です💦

別院時代のお盆参りは、毎日20軒🙏💦
今思えば、どこか義務的に法務をこなしていたような気がします🙇

でも今は、一つひとつのご縁が決して当たり前ではなく、どれほど有り難く、大切なことなのか、身に沁みて感じています🙏

「無理しなくていい。とは言ったが、努力しないでいい。とは言ってない。」

「楽をして良い。とは言ったが、ズルをして良い。とは言ってない。」

ほどほどに頑張ります😹🙏

そして昨日も朝から、サンドイッチマン有難う🙏😌🥪

倒れない程度に😹

朝なので、平和の鐘はちょこんと行ってきます🙏🔔

ありのまま

29年前のテレフォン法話です。

「辺見庸という作家が対談で決のような話をしております。「ぼくは今、非常に興味があるのは臭いなんです。臭いに無性の関心がある。というのも、地下鉄に乗っていたら、排泄物の臭いを消す薬という広告を見たんですね。これが中高校生の間で流行っているという。ポケットベルとその薬。これが常備だっていうんです。ぼくは自分の排泄物も臭わさないで、人生いったい何が面白いのかと思う。さっきいった黒板のチョークを黒板消しで消すようにして人を殺せるというのもそれです。相手の臭いとか痛みとか手触り、そういうものを全部排除する社会になっている。相手の手触りとか言葉とか息づかいとか肌の感触とか、最近の日本人はそういうのが嫌なんです。直接的に交わるのが嫌なんです。臭いにまみれたり、汗にまみれたりすることを非常に嫌がる。美しさ醜さ、この基準を今の日本のようにこれほど単純にステレオタイプ化した歴史というのも人類史の中にないと思う。」という発言です。誠にその通りだと思います。

現代の人間には顔がないという。個性がない、特性がない。みんな考えることも、行動することも、相貌さえも均一化してきているし、均一化しようとしている。他と同じであることに安らぎを求めるということは、同じでないものを差別し排除する世界を作り出すのである。そこには他者との本当の意味での関係は生まれない。お互いの悲しみや痛みを共有する本当の関係が生まれてこないのです。誰にとっても、ありのままの自分を受け入れてくれる「ふところ」が欲しいのです。差異は差異で光輝く。差異があるから学べる世界を発見する。」

今の時代でも新鮮に響いてくる法話です。

30年近く経っても何も変わっておりません。心して耳を傾けていかなければならないと思います。

もちろん、制汗剤そのものが悪いわけではありませんし、清潔を保ったり、人への配慮として使うこともあります。

でも、この法話が問いかけているのは、そのもっと奥なのでしょう。

「臭いを消すこと」ではなく、「自分にとって不快なもの、都合の悪いもの、異質なものを、何でも消してしまおうとしてはいないか?」

29年前には「排泄物の臭いを消す薬」や「ポケットベル」が時代の象徴として語られていました。それが今では、制汗・消臭は当たり前になり、人とのやり取りもSNSやメッセージで済ませられ、気に入らなければミュートやブロックもできる。

便利になった一方で、

「相手の臭いとか痛みとか手触り、そういうものを全部排除する社会」

という言葉は、むしろ29年前より今の方が現実味を帯びているようにも感じます。

「ありのままの自分を受け入れてくれるふところ」を、私たちは他人に求めながら、自分は果たして他者の「ありのまま」を受け入れているのか、と問われております。

30年近く経って古びるどころか、社会の方がこの法話に追いついてしまったような感じさえします🙏

南無阿弥陀仏

後ろ髪

ご葬儀のあと、御斎のお弁当をいただきました🙏

「お時間があれば、一緒にどうですか?」とお声までかけていただきました😌

先日、自分で
「最近は御斎に呼ばれることも少なくなった。だからこそ、こうして語り合える場を大切にしたい」
なんて言っておきながら……

今日はこのあとお通夜です🙏💦

本当はご一緒したかったのですが、お通夜に間に合うよう移動しなければならず、後ろ髪をひかれながら失礼いたしました🙏🙇

立派なお弁当本当に有難うございます🍱✨

またご縁がありましたら、今度こそゆっくり呼ばれたいと思います🙏😌

さて、安全運転で次のお勤めへ🚗🙏