お内仏の前に座る

早稲田に通う姪がいます。
一方で、中学校へ通うことが難しい娘もいます。

だからこそ、
「生きるって何だろう。」
そんなことを考えさせられます。

世の中は、学歴や成績、数字で人を比べることが当たり前になっています。

けれども、本当にそれで人の価値は測れるのでしょうか。

真城義麿先生は、こんなお話をされていました。

「例えば国によっては義務教育期間中に子どもを数字で比べることが禁じられています。それが子どもをダメにするからです。

その国では、小学校低学年は授業時間にも上限があります。なぜだと思いますか。

脳が疲れるからです。

子どもたちにとって、ぼーっとする時間は、授業を受ける時間よりはるかに大切なんです。

今は脳科学でもそういうことが解明されてきていますが、日本は昔ながらの『長く勉強した人がすごい』という価値観が根強くあります。」

脳科学でも、何もしない時間、静かに考える時間が人間には必要だと言われています。

だから先生は、大谷大学の入学式で学生たちに、

「君たちの誰にも負けない財産は、この四年間という時間を手に入れたことだ。」

と語られました。

アルバイトをして時給を得ることも大切です。

しかし、その時間は、自分のかけがえのない人生そのものでもあります。

「何かの役に立つため」だけではなく、
静かに呼吸をし、
ぼーっと自分自身と向き合う時間。

昔から、お内仏の前に座る時間には、そんな意味もあったのではないでしょうか。

学校へ通っていることも、
学校へ通えないことも、
学歴があることも、
ないことも、

人のいのちの尊さを決めるものではありません。

誰かと比べるために生きるのではなく、
自分自身の「いのち」と向き合う時間を持つ。

それがお内仏の前に座るということなのかもしれません。

「仏法を聴くと、生きづらさが涙となってあふれることがあります。しかし、その涙は、生きていく力にもなります。」

そんな言葉を、今は自分自身に言い聞かせています。

……とはいえ、
「住職はいつもボーっとしてる😹」
と言われそうですが(笑)

そして、このまま小卒になったらこの娘はどうなるんだろうと、ぼんやり考えております。

南無阿弥陀仏

GOタクシー

無事に高尾山山頂へ到着⛰️✨

……したのはいいのですが、暑さもあって、

「もう下山は無理かも😹」

と心が折れそうに💦

冗談半分でGOタクシーを開いてみたら…

「13〜16分で到着」

えっ、本当に来るの!?😳🚕笑

高尾山の山頂でもタクシーが呼べるとは思いませんでした💡

もちろん、ちゃんと自分の足で下山しましたが😄

文明の力ってすごいですね🙏🚕

親鸞宗ではない

「親鸞を答えにするな」

これは、もちろん「親鸞の教えを否定しなさい」という意味ではありません。

親鸞を”知識”や”権威”として持ち出して、自分の問いを終わらせるなという戒めなのではないでしょうか。

「親鸞聖人がこう言っているから。」

で終わってしまえば、自分は何も問われないまま、親鸞聖人を開祖のように仰いでしまう。真宗は「親鸞宗」とは名乗りません。親鸞聖人を開祖として仰ぐのではなく、宗祖として仰ぐからです。

「宗祖」とは、単に一宗派を開かれた方という意味ではありません。何を依り処(宗)として生きることが、本当に「人として生きる」ことなのか。そのことを私たちに先立って顕らかにされた方(祖)として仰ぐのです。だからこそ、真宗は「親鸞宗」とは名乗らないのでしょう。親鸞聖人を答えにするのではなく、親鸞聖人を通して釈尊の教え、阿弥陀如来の本願に出遇い直していく。その歩みが真宗なのだと思います。仏教もまた「釈迦教」とは言いません。

そして、

「この私にとって、仏教とは何なのか。」

という問いになったとき、初めて教えが自分の問題になる。

ここで先生はさらに、

「親鸞聖人は天災や人災について多くを語らない」

と言われる。

それは社会問題に無関心だったということではなく、

「そういう時代を生きる私自身が、何によって立つのか。」

そこを問い続けたからではないでしょうか。

「被災地が大変だ」で終わるのでもなく、
「自分だけを見つめる」のでもない。

被災地の現実に出遇った私が、何を大切に生きるのか。

そこに仏法の問いが開かれてくるのではないでしょうか。

だから先生は、

「宗教は世間の問題の答えを出すものではない。」

と言われます。

世間には、
道徳や倫理、法律があります。

しかし、それだけではどうにもならない私がいます。

嫉妬する私。憎む私。執着する私。
正しいことを言いながら人を傷つける私。

その私を照らす問いが仏教なのだ、と。

「亡き人を案ずる私が、亡き人から案じられている。」

という言葉にも、通じるものを感じます。

普通なら、

「故人のために何をするか。」

という問いになります。

でも仏法は、

「そのように思っている私は、どのような存在なのか。」

と向きを変えてくる。

まさに「自己を問われる」ということなのでしょう。

最後の

「時代が宗教を必要とするかどうかではない」

という一節も考えさせられます。

今は葬儀も法事も「形式」だけになりがちです。
けれど先生は、通夜や法事や月忌参りを通して、
「私は本当に何を求めて生きているのか。」

それを確かめる場であってほしい、と言われます。
人数の多少ではなく、一人でも、その人自身の問いが開かれる場となるなら、そこに聞法の意味がある。

そのことを改めて教えられたように思いました🙏

私にとって

「あなたにとって宗教は必要なのか」、「あなたにとって親鸞の求めたものは必要なのか」、「親鸞を答えにするな」
〜中略〜
「自己を問われる」とは。
悩みが縁として問いになることはあります。しかし、悩みを縁として、お金がないとか、彼女がいないとかいるとか、世の中で人殺しが多いとか、これは何だろうっていうことは、問いでしょう。親鸞聖人だってあの時代ですから、天災もあったし、人災もあった。のたれ死にする人もいる。しかし、親鸞聖人はそういうことについて一切言わない。
そういう時代に生きている私にとって、宗教、仏教は何なんだっていう問いです。だから、そういう問いを私たちは一般世界に問うべきではないですか。
〜中略〜
例えば、今「顕浄土」ということを言わないですね。世の中の道徳・倫理が不必要とは言いません。大事なのは、道徳・倫理を突き破ってくるような意味での問いですね。
〜中略〜
時代の要請っていうことですが、時代というものが宗教を必要としたら、それは必ずそういう時代の流れに取り込まれていきますから。時代が要請しようがしまいが、いかなることがあっても、そういうことではないのでしょう。例えば、儀式と言っても今は内容のない儀式だけでしょう。しかし、それを何とか、通夜を通し法事、月忌参りを通して、本当に私も悩んでいるけども、こういうことを求めんとならんだろうっていうことを確認できる場が教研でしょう。(畠山先生)

夕方

なんか暑いと思ったら…🥵💦

車の外気温計は40℃😳

もう、夕方ですよ…

さすがにこれは暑いですね🫠

それでも、この暑さの中で復旧作業や避難生活を送っておられる被災地の方々のことを思うと、弱音ばかりも言っていられません🙏

どうか皆さまも、無理をせず、水分・塩分補給を忘れずに。

一日も早く穏やかな日常が戻りますように🙏🙇

ひまわり🌻

通りすがりにパチリ📷🌻

一面のひまわりに思わず車を止めちゃいました😊

夏ですね〜☀️

…なんて言ってる場合じゃない😹💦
よし、急がなきゃ💡

お朝事

お朝事(2日目)🙏

昨日より、読経もずいぶん上手になっていました😊

この調子で続けてくれたら嬉しいですね。

……三日坊主にならなきゃいいんですけどね😄
(僕のほうが😹)

私はというと、昨日の高尾山登山の疲れがまだ残っています🥹💦

やっぱり若いっていいですね✨

「一人いて喜ばば二人と思うべし
二人いて喜ばば三人と思うべし
その一人は親鸞なり」

南無阿弥陀仏