29年前のテレフォン法話です。
「辺見庸という作家が対談で決のような話をしております。「ぼくは今、非常に興味があるのは臭いなんです。臭いに無性の関心がある。というのも、地下鉄に乗っていたら、排泄物の臭いを消す薬という広告を見たんですね。これが中高校生の間で流行っているという。ポケットベルとその薬。これが常備だっていうんです。ぼくは自分の排泄物も臭わさないで、人生いったい何が面白いのかと思う。さっきいった黒板のチョークを黒板消しで消すようにして人を殺せるというのもそれです。相手の臭いとか痛みとか手触り、そういうものを全部排除する社会になっている。相手の手触りとか言葉とか息づかいとか肌の感触とか、最近の日本人はそういうのが嫌なんです。直接的に交わるのが嫌なんです。臭いにまみれたり、汗にまみれたりすることを非常に嫌がる。美しさ醜さ、この基準を今の日本のようにこれほど単純にステレオタイプ化した歴史というのも人類史の中にないと思う。」という発言です。誠にその通りだと思います。
現代の人間には顔がないという。個性がない、特性がない。みんな考えることも、行動することも、相貌さえも均一化してきているし、均一化しようとしている。他と同じであることに安らぎを求めるということは、同じでないものを差別し排除する世界を作り出すのである。そこには他者との本当の意味での関係は生まれない。お互いの悲しみや痛みを共有する本当の関係が生まれてこないのです。誰にとっても、ありのままの自分を受け入れてくれる「ふところ」が欲しいのです。差異は差異で光輝く。差異があるから学べる世界を発見する。」
今の時代でも新鮮に響いてくる法話です。
30年近く経っても何も変わっておりません。心して耳を傾けていかなければならないと思います。
もちろん、制汗剤そのものが悪いわけではありませんし、清潔を保ったり、人への配慮として使うこともあります。
でも、この法話が問いかけているのは、そのもっと奥なのでしょう。
「臭いを消すこと」ではなく、「自分にとって不快なもの、都合の悪いもの、異質なものを、何でも消してしまおうとしてはいないか?」
29年前には「排泄物の臭いを消す薬」や「ポケットベル」が時代の象徴として語られていました。それが今では、制汗・消臭は当たり前になり、人とのやり取りもSNSやメッセージで済ませられ、気に入らなければミュートやブロックもできる。
便利になった一方で、
「相手の臭いとか痛みとか手触り、そういうものを全部排除する社会」
という言葉は、むしろ29年前より今の方が現実味を帯びているようにも感じます。
「ありのままの自分を受け入れてくれるふところ」を、私たちは他人に求めながら、自分は果たして他者の「ありのまま」を受け入れているのか、と問われております。
30年近く経って古びるどころか、社会の方がこの法話に追いついてしまったような感じさえします🙏
南無阿弥陀仏


