お朝事
仏さまの前に座って、手を合わせ、頭を下げる。
ある先生が、「お朝事は、謝る練習でもある」とおっしゃっていました。
私たちは、なかなか頭が下がりません。
「自分は悪くない」
「あの人が悪い」
「自分は間違っていない」
そうやって、頭を上げて生きています。
そんな私が毎日、仏さまの前では頭を下げる。
頭の下がらない私の頭が、下がる練習をさせていただいている。
朝、陽菜は起きてきませんでした。
坊守は早くからお勤めへ。
今日は一人🙏
一人でお勤めをしながら、昨日からずっと心に残っている言葉があります。
「私たちはいつの間にか
多数を正義として
ひとりを見失っていました」
学校へ行けないという事実だけを見ると、いつの間にか「学校へ行けない子」の側に問題があるように考えてしまう。
でも、いじめた側は何事もなかったように学校へ通い、いじめられた側が学校へ行けなくなり、その子や家族だけが「この先どうなるのだろう」と不安を抱える。
それは、どこかおかしな話。
しかし、
学校へ行くことは大切かもしれません。
けれど、学校へ行くこと以上に、その子がその子として生きていくことの方が大切。
みんなと同じ道を歩けなくてもいい。
学校だけが学ぶ場所でも、生きる場所ではない。
遠回りに見える道も、立ち止まる時間も、その子にしか歩めない大切な人生の一部。
「多数」の中へ戻すことばかりを考えるのではなく、
目の前の「ひとり」を見失わない。
「いじめられる方にも問題があるんじゃないか」
「どっちもどっちなんじゃないか」
私自身、そんなふうに思ってしまうことがあります。
けれども、それこそが、
「私たちはいつの間にか
多数を正義として
ひとりを見失っていました」
という言葉に照らされている私の姿なのだと思います。
仏さまの教えを聞いているからといって、
私が教えの通りに生きられる人間になったわけではありません。
人を比べ、裁き、
多い方に安心し、
自分に都合のいい正義をつくって、
目の前の「ひとり」を見失ってしまう。
もし私が、教えられた通りに生きることのできる人間なら、
そもそも教えなど必要ないのでしょう。
教えに背いて生きている私だからこそ、
教えが光となって、私の姿を照らし出すはたらきとなる。
光があるから立派になるのではなく、
光に照らされて初めて、
「ああ、私はまた、ひとりを見失っていた」と知らされる。
だからこそ、教えは光り輝くのだと思います。
確かに、私にも頭を下げなければならないことがあります。
離婚をして、母子家庭の中で寂しい思いをさせてきました。
そして私は再婚し、八王子で新しい生活を送っている。
娘のことを思えば、「本当に申し訳なかった」と、頭が下がります。
過ぎてしまったことを、なかったことにはできません。
けれども、頭を下げたあと、ずっと下を向いていなければならないわけではありません。
頭を下げたからこそ、もう一度、前を向いて歩いていく。
学校へ行けないなら、無理に「多数」の側へ押し戻すのではなく、陽菜が陽菜として歩いていける道を、一緒に探していこう。
それが今、父親としてできることなのだと思います。
私も間違える。
また「ひとり」を見失ってしまうかもしれない。
だからこそ、また仏さまの前に座り、手を合わせ、頭を下げる。
そしてまた、照らされながら生きていくのです。
……まあ、今は夏休みなので、そもそも学校はありませんが😄
それでも、他の子たちは部活に勉強に遊びにと、それぞれの夏休みを過ごしているのでしょう。
陽菜も、陽菜の夏を生きています。
明日、陽菜は帯広へ帰ります。
寂しいです。
もっとこうしてあげればよかった。
あの時こうしていればよかった。
思えば、いろいろなことが出てきます。
それでも、過ぎた日には戻れません。
だから、今日を生きる。
離れていても、父親であることに変わりはありません。
陽菜は陽菜の道を。
私は私の道を。
そしてまた、ご縁があれば一緒に歩けばいい。
寂しいけれど、私たちは生きていかなければなりません。
頭を下げたら、また頭を上げて。
今日もまた、頭を下げて上げて忙しい🙏
そして、頭を下げて気づく。
寝癖がひどい😹
南無阿弥陀仏🙏





