アウシュビッツや戦争をTVで見て、
「なぜ人間は争うのだろう」
「なぜ人間はこんな残酷なことができるのだろう」
と考える。
ところがテレビを消せば、そこには自分の生活がある。
妻がキャッシュカードを失くした。
正直に「失くした」と言えばいいのに、嘘をついた。
すると腹が立つ。
「なんで正直に言わないんだ」
「失くしたことより、嘘をついたことが腹立つ」
そういう思いが次々と湧いてくる。
もちろん、夫婦喧嘩と戦争や虐殺を同列に扱うことはできない。規模も責任も苦しみもまったく違う。
でも、「争いというものは、自分とは無関係な遠い世界だけにあるのか」と仏法から問われれば、そうとも言い切れない。
自分が正しい。
相手が悪い。
謝ってほしい。
分かってほしい。
許せない。
その瞬間、私の世界には「私」と「相手」ができる。
六道は死後の世界ではなく、私たちの生きている姿としていただけば、本当に、
生活が六道を輪廻している。
腹が立って修羅になり、
欲しいものを求めて餓鬼になり、
都合よくいけば天上にいるように喜び、
少しすればまた腹を立てる。
朝、仏さまの前で手を合わせて頭を下げたその日のうちに、妻には頭が下がらない。
だから、
真宗の仏道は、生活を離れたところにあるのではなく、生活のただ中にある。
という言葉が、急に現実味を帯びてくる。
お経をいただいてるときだけが仏道を歩んでいるのではない。
キャッシュカードを失くしたと聞いた瞬間も仏道。
嘘をつかれて腹を立てているときも仏道。
「俺は悪くない」と思っている、その私が照らされるのも仏道。
そして、
「六道から抜け出して立派な人間になってから、仏道を歩む」のではない。
わかっちゃいるけど、やめられない。
分かっていても腹が立つ。
教えを聞いていても妻を責める。
戦争を見て「人間はなぜ争うんだ」と嘆いていた本人が、その日のうちに家庭で争っている。
そこで、
「ああ、人間とは愚かだ」
ではなく、
「ああ、“人間”とは私のことだった」
となる。
ここに聞法がある。
「苦しみのない世界を教えてください」と願った韋提希夫人。
私も「戦争のない世界になれば」と願う。
でも、その私の日常には争いがある。
だから浄土を願うということは、単に「どこかに争いのない理想世界がありますように」と願うだけではなく、その浄土の光によって、
争いをなくしたいと願いながら、争いをつくっている私自身が照らされる。
その生活のただ中で南無阿弥陀仏を聞いていく。
そう考えると、
「真宗は生活のなかで仏道を歩む」
という言葉は、きれいな生活をするという意味ではなく、
六道を輪廻している、このどうしようもない生活そのものが聞法の道場になる
ということなのかもしれません🙏

