ラブ上等

8月4日から、ラブ上等2が始まったと言うことで、1も見てない私は2日間かけて見ました。

先輩から、「水はやべぇだろ」と言う名言を聞いていたので、いつその台詞が出てくるのか楽しみにしてました。

内容はともかく、20年くらい前の先生の言葉が思い起こされました。

「我が身が明らかになるというところに、仏道ありということを忘れて、念仏者とはこうあるべきじゃないかとか、教研生ってこうあるべきじゃないかとかということを、いつの間にか知らず知らずのうちに人を裁いてしまう。そういう心を天親は「我一心」、自督の詞としておさえてくださっております。督というのは左訓にあきらかになる。勧なり、率なり、正なり、俗は「とく」に作る。この率いるということは、統率者という意味があり、蓬茨先生は当事者と解説し、仏法の当事者になっていくという意味で、引き受けるという意味だと。引き受けるとは具体的に、「自らが正されていく」という意味を督という字で述べられております。念仏者のあり方というのはこういうあり方なんだと知らされるのは、聖典であり、仏語によって知らされるということではありますが、それが具体的になるというのは、やはり、人との出会いを無くして仏語と出会うということは、難しいのだと思います。それこそ、師や友と出会えるような、見い出せるような自分自身となっているのか。もちろん、師や友というのを、教研の中の狭い世界で考える必要はないんだと思います。この21人の中で友がいなきゃならないのかといったら、あいのりで5人くらいいる中で、恋愛してくれっていうのと同じですよね。笑

私はみんな嫌いだって言ったらおしまいです。そういう狭い世界の中で見つけるっていうことではなくて、やっぱり、外に出てそういうことが問われてくるのではないでしょうか。師や友が見いだせるような自分自身になってるんだろうか。そういう私の在り方を、正してくださる人との出会いということが、大事なんだろうと思います。

以前、畠山先生からよく、

「答えに立つな問いに立て」といわれました。

あるお寺で、その先生の言葉を引用して「問いが大事だ、問いが大切だ」と法話をしていたんです。

そしたら、そこの御住職に、問いが大切だということを、答えにしてないかといわれまして、俺はどうしたらいいんだと思いました。笑

そう私は教えられたんですっていうことで、未だに深い意味はわからないんですが、いつの間にか問いに立てってという事自体も、答えとして握りしめてしまうことがあるのでしょう。そういうことを、正されるというか、見直されるような人との出会いというか。

正直いって、今期初めて教研のスタッフに呼ばれて、正直嫌でした。安穏と自分のとこの寺で家族と生活してたほうが僕は楽でいいなあと、常日頃思ってるのですが、皆さんそんなことないですか?笑

たくさん学びたいと思って来た?分ちゃん?笑

僕はどちらかと言ったらそうなんですよね。研修会には出たいけど、スタッフとしての教研は実際大変だし、嫌だなあって思ってたんですけど、一つやっぱり理由としてあったのが、出会いっていうことかなと思って、引き受けさせてもらいました。

やっぱりお寺だけにいたら、その中に出会いというのはあるのかも知れないですけれど、やっぱり厳しい場に身を晒すことによって、そこでまた出会っていくということは、また違うし、厳しく辛いような現場で身を晒すということの大事さということを感じました。」

最初は、「水はやべぇだろ」を楽しみに見始めたはずが、最後は二十年くらい前の先生の言葉に出遇い直していました。