親鸞宗ではない

「親鸞を答えにするな」

これは、もちろん「親鸞の教えを否定しなさい」という意味ではありません。

親鸞を”知識”や”権威”として持ち出して、自分の問いを終わらせるなという戒めなのではないでしょうか。

「親鸞聖人がこう言っているから。」

で終わってしまえば、自分は何も問われないまま、親鸞聖人を開祖のように仰いでしまう。真宗は「親鸞宗」とは名乗りません。親鸞聖人を開祖として仰ぐのではなく、宗祖として仰ぐからです。

「宗祖」とは、単に一宗派を開かれた方という意味ではありません。何を依り処(宗)として生きることが、本当に「人として生きる」ことなのか。そのことを私たちに先立って顕らかにされた方(祖)として仰ぐのです。だからこそ、真宗は「親鸞宗」とは名乗らないのでしょう。親鸞聖人を答えにするのではなく、親鸞聖人を通して釈尊の教え、阿弥陀如来の本願に出遇い直していく。その歩みが真宗なのだと思います。仏教もまた「釈迦教」とは言いません。

そして、

「この私にとって、仏教とは何なのか。」

という問いになったとき、初めて教えが自分の問題になる。

ここで先生はさらに、

「親鸞聖人は天災や人災について多くを語らない」

と言われる。

それは社会問題に無関心だったということではなく、

「そういう時代を生きる私自身が、何によって立つのか。」

そこを問い続けたからではないでしょうか。

「被災地が大変だ」で終わるのでもなく、
「自分だけを見つめる」のでもない。

被災地の現実に出遇った私が、何を大切に生きるのか。

そこに仏法の問いが開かれてくるのではないでしょうか。

だから先生は、

「宗教は世間の問題の答えを出すものではない。」

と言われます。

世間には、
道徳や倫理、法律があります。

しかし、それだけではどうにもならない私がいます。

嫉妬する私。憎む私。執着する私。
正しいことを言いながら人を傷つける私。

その私を照らす問いが仏教なのだ、と。

「亡き人を案ずる私が、亡き人から案じられている。」

という言葉にも、通じるものを感じます。

普通なら、

「故人のために何をするか。」

という問いになります。

でも仏法は、

「そのように思っている私は、どのような存在なのか。」

と向きを変えてくる。

まさに「自己を問われる」ということなのでしょう。

最後の

「時代が宗教を必要とするかどうかではない」

という一節も考えさせられます。

今は葬儀も法事も「形式」だけになりがちです。
けれど先生は、通夜や法事や月忌参りを通して、
「私は本当に何を求めて生きているのか。」

それを確かめる場であってほしい、と言われます。
人数の多少ではなく、一人でも、その人自身の問いが開かれる場となるなら、そこに聞法の意味がある。

そのことを改めて教えられたように思いました🙏